第七回初期仏教勉強会と冥想会 2018年4月              感想レポート No,2 吉水秀樹

      感想レポート No,2 吉水秀樹

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 Loka pāla dhamma 『世間・守護・法』ということで法話がはじまりました。一言でいうと、「悪いことをしない」です。以前はこの「悪いことをしない」がどれほど大切な道徳であるかなど知る由もありませんでした。私は道徳を「善いことをしなさい」という教えだと甚だしい勘違いをして、道徳は胡散臭いと思い込んでけっきょく不道徳な生き方をしていて罰が当たりました。
 世間守護法とは、イティヴッタカ『如是語経』に説かれている「慚愧」の教えのことです。日本では慚愧という言葉は、一般的に使われることがなくて、政治家などが公の場で人に向かって、失態を告白するときに使われます。しかし、初期仏教では人間と人間社会を理解するのに大変重要な言葉になっています。
 さて、この世の中は何によって、秩序が保たれているのでしょうか? この根本的な問いかけに対して、仏教以外の宗教では、「神によって秩序が保たれている」と説きます。
 お釈迦さまの答えは、『「慚」と「愧」この二つによって世間は秩序が保たれている』です。初期仏教での慚愧は、「慚hirîヒリ」と「愧ottappaオッタッパ」の二つの言葉からできています。
◎慚ヒリは「恥じること・恥じらい」
◎愧オッタッパは「怖れ」、こんなことしていてはダメだ、ヤバいという意味です。

 私は見たことがありませんが、テーラワーダ仏教寺院の建物の入口には、この慚と愧をモチーフにした壁画などが飾ってあるお寺もあるらしいです。日本流に言うと山門の仁王さん、ヒリ大明王とオッタッパ不動尊といったニュアンスなのでしょうか。それくらい人間道徳の基礎になっている重要なダンマなのです。
 細かいことは外して、私が学んだ根本的なことを報告します。
ともかく肝心なことは、「悪いことをしない」。では、誘惑に満ちたこの世で、どこで踏み止まればよいのか、わが身を振り返っても重大なことです。
 さて、道徳(五戒)などの戒めとの位置関係はどうなっているのでしょうか? 
 仏教に入門したら戒めを持ち道徳を持つことは大切ですが、どちらかと言えば表面的で大脳新皮質で考えることのようにも思います。しかし、慚愧の問題は、そういった道徳よりもっと深い、本能的な部分に作用しているように思います。道徳以前の問題なのです。ですから、仏教徒であるないに関係なく、買い物をする主婦であれ、不良少年であれ、戦場の兵士であれ、国を動かす権力を持った人であれ、すべての人間に作用している根本的な「世間守護法」のようです。
 慚愧のこころを持つことが、人間としての社会生活の基盤になっていると思います。人々から慚愧のこころが失われていくと、無慚で悲惨な世界があらわれてしまいます。
 なぜ、私たちの多くは他人の物を盗んだりせず、秩序を保って生きているのでしょうか? それは「自分の財産を守って、生き残る為」です。慚愧の背後に、「生きていたい」「死にたくない」この二つの根本的な衝動から、慚愧のこころが生まれていることが興味深いです。

 また、スマナサーラ長老によると、「慚hirîヒリ」(恥じらい)と「愧ottappaオッタッパ」(怖れ)は、同時には存在しないこと。何とお釈迦さまには、オッタッパ愧(怖れ)は無かったと、語られていることも興味深いです。お釈迦さまは「悪いことをする」ということ自体が無くなっていたので、(ヒリ慚が完璧に作用していた)オッタッパ愧(怖れ)は無かったということなのでしょうか。
 私は自分を観察したら、オッタッパの方が強く働いているようにも感じます。それは、ヒリが乏しく悪いことをしたいという衝動が常に作用していることのようにも感じました。
 万引きをしたいという衝動を持っている人は、「怖れ」が生じます。捕まったらヤバイということです。しかし、「与えられていないものを盗る」ことは恥ずかしいことで、そんな悪行為をしたいと思わない人には、オッタッパ恐怖は生まれません。
 スマナサーラ長老は、「精神の進化は慚愧から生まれる」と仰って、肉体の進化とは違って短い時間で達成できる、正精進すれば解脱できると説かれました。 
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