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4月8日(日)第七回初期仏教勉強会、4月11日(水)実践冥想会  参加者の感想

4月8日(日)第七回初期仏教勉強会、4月11日(水)実践冥想会 
参加者の感想 ※感想は少々編集してあります。
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   冥想会+ S.A
 「先生」という呼び名から、説明したいと思います。ニャーナラトー先生はたぶん「長老」なのだと思います。「師」であり、「比丘」なのだと思います。あるいは仏典のように「尊者」と呼ぶべきなのかもしれません。でも僕はあえて、「先生」と呼びたい、先生に触れてそう思いました。それは先生が輝くべき経歴、長きにわたる厳しい修行の達成、異国の地での多様な経験ーをお持ちにもかかわらず、なんというかとてつもない「親しみやすさ」を持っているからです。まるで近所のおじさんが優しくアドバイスをくれるような、手習いの先生がそっと寄り添って指差しで教えてくれるような、そんな感じだったのです。これはスマナサーラ長老に初めてお会いした時の印象とは大いに違っていて面白かったです。長老はなんていうか「ロックンローラー」。ブレない孤高の人。
先生はやっぱり「先生」。親しみやすくて頼りになる先輩。それは瞑想指導にも現れていて、やっぱり長老の指導やメソッドはスパッと明快でやることがハッキリしている感じ。対して、先生のやり方はどこか(いい意味で)スキがあって、ゆるくて、おおらかな感じ。まるでタイの田舎に流れるのんびりした空気みたいな。まさに先生の瞑想は”Holiday of heart”でした。
あの一日、僕はのんびりと休暇を楽しむように瞑想ができました。この感覚って今までちょっとなかったです。いままでも瞑想するのは発見に満ちていて楽しいとは感じましたが、心を休ませるっていう感覚はなかった。力を抜くのもどちらかというと集中力を高めるっていう目的のためにやっていた感じがします。
「へえーこういう瞑想もありなんだ」と思うとなんだか心が楽になった気がします。また先生の言葉も心に残っています。
「クラァーイィ」(緩める)というやつ。あれから座る時はいつでも「くらぁーいぃ」と言っています。生活の中で体や心に力が入ってるなと感じる時にも使っています。使っています、と言いましたが、本当は自然と口から漏れ出てくる、そんな感じです。本当に、ぴったり張り付いたネジがゆるんでフワッとスペースが生まれるような、そんな効果がある言葉だと思います(五蘊の想saññaの段階で効果があるんでしたね?)。「手放す」と並んでお気に入りの言葉になりました。ありがとうございます。
 また法話会では世間守護法(lokapāla dhamma )としてのHiri(慚shame)とottappa(愧fear)の説明をしていただき、その役割や作用についてわかりやすく説明していただき、より慚愧に対して自覚的になれたような気がします。またヘイトスピーチなどの話題も出て、具体的にそういったいわゆる「悪」に出会った時に仏教者はどうすればいいのか、などの質問に答えていただき、大変為になりました。本当にありがとうございました。



   冥想会 T.N
 静かな村のお寺の本堂で、ニャーナラトー師のご指導の元、鳥の鳴き声や風の音を聞きながらの瞑想は贅沢な時間でした。歩く瞑想も、まるで先々月に東北タイの森林寺で托鉢に同行した時の様に、静かな山沿いや竹林沿いの坂道を、ニャーナラトー師の後を追って一歩一歩歩くことができ有難いです。
どんな恐ろしく大きな電車がやって来ても、駅のホームのベンチに座って、こころ穏やかに、緩やかな構えで、電車の通り過ぎるのを見届ける、いつかそんな平和な日が迎えられそうな瞑想会でした。
簡単な質問を紙に書きましたが、ニャーナラトー師に話を広げて答えて戴き有難いでした。法話のテーマ通り、心穏やかな、緩まった1日を過ごせました。ありがとうございます。

  冥想会  K.O
・「なにもしない」で居続けた1日は、心も身体も、自分というきつい枠組みも、いつの間にか解けて消えて行くような深い安穏の体験でした。
・歩く瞑想の時、草や木や花や虫や鳥たちと同じになって、自然の中に混ざっていく感覚がとても不思議で心地よかったです。
・一日中、ずっとニャーナラトー師の深い慈愛に守られ包まれているのを感じ、胸がいっぱいでした。感謝しかありませんでした。
・終わってからは、現実とのギャップに戸惑い、すぐには上手く戻れませんでしたが、日常の煩雑な所作でも歩く瞑想の時の感じで取り組めるような気がしています。
・今後も月に一度でもいいので、先日の様な丸一日の瞑想を実践したいと思いました。

  冥想会 T.Y
 瞑想はとにかくやるしかないのだろうなと思っています。師のお話ではっとしたのは、サンニャー(知識・記憶・名前)についても「緩める」ということでした。これは吉水さんがおっしゃっていた、何かを見て「ペットボトル!」と即座に反応して命名することが妄想と気づいて離れることだなと思ったのですが、今まではそれもよくわかっていなかったと思いました。心に浮かぶ想念はすべて、ありのままではない、思い込みなのですね。そこに気づいて、だいぶ楽になった気がします。

   冥想会 C.O
 ここしばらく慌ただしい毎日でしたので、久々にゆっくりと瞑想を楽しむ事が出来ました。歩く瞑想も、いつもお寺で歩くのより長く歩かれて、長く歩くのも良いなあと思いました。二周目あたりから心がより集中した状態にに入っていった様に思いますが、次第に目に映る風景が自分自身から立ち現れている様な感じで、目に映っている物、エネルギーが湧き上がってくるのを感じました。悲しさとはまた違うかんじの、慈悲と言うとおこがましいですが、強く静かなエネルギ―と思いました。でも、あまりそれを追わない様に、あえて集中に入らない様に、ニャラトー師が仰るくつろぐ感じで歩いていました。法話会の方で、ニャラトー師の第一声で「もうこれで十分」というような事をおっしゃっていましたが、私も全く同感です。お寺にいるだけで、完結しているというか、満たされている感があります。今回は、ご質問がえらく少ないとおっしゃっていましたが、皆さん同じように感じておられるのでしょうね。本当にご縁に感謝したいと思ます。

   冥想会 N.M
 沈黙でいることから始まり、座る瞑想、歩く瞑想、朝から夕方まで、本当に心静かな、素晴らしい時間でした。沈黙でいるということは、言葉がないのではなく、逆にもっと心豊かで、濃密である気がしました。言葉では表現できない次元の空間があり、普段は見過ごしている気づきがありました。その中で始まった瞑想は、心が穏やかになると同時にまた、何かにつながるような感覚で、自分の存在と他との境界線がなくなるような不思議な感覚でした。ニャーナラトー師のお話しにあった、駅のホームと通りすぎる電車の話は、わかり易かったです。気づいたことは、いままでは、瞑想の時に、電車が見えたら、ホームに来るなと止めてしまっていたことです。止めていただけなので、それは、隙を狙ってまたすぐにやってきます。今回、電車が駅を通り過ぎていくままに見送ることにしたら、それはもうやってこないことに気づいたのです。
電車が通りすぎて、また次の電車を見送って、を繰り返しているうちに、電車がぱたっと来なくなる時間があって、だんだん静になって行ったのです。心が穏やかになる実感をしました。
最後に話された大切なことが、まだなんとなくとしかわからないですが、物事にセットになっている既存の言葉や感覚、知識から少し距離をおいて、決めつけず、明確にしようとこだわらず、その間合いを大事にするということなのかなと自分では解釈しています。朝から夕方までの長時間、瞑想できるのは本当に贅沢な時間でした。ここまで瞑想すると、本当に心が落ち着いて、穏やかなのが実感できます。貴重な素晴らしい時間をありがとうございました。

   冥想会 S.K
 どなたかの質問で歩く瞑想の話(映画のスクリーン)がありましたが、私自身、昨日は、初めて「景色」すら何も感じる事なく、単なる「色」が目の前に広がってるだけという不思議な感覚になりました。後、当たり前の様に唱えている「回向偈」の意味の深さを教えていただき、毎日、自身が唱えているお経に、そんなつもりはなくても、あってはならない「慣れ」というものがあるという事を感じました。朝夕の本堂での勤行を日替わりで「和文」を取り入れていき、一つ一つのお経の意味の深さを味わいたいと思います。 合掌

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  勉強会  T.W
 今回が初参加で、前回までに出てきた専門用語が理解できるか不安でしたが、今回大変分かりやすく教えていただきましたので、とりあえず一つ「慚愧」という言葉は覚えられました。日々の行いの指針として覚えやすく、心に留めておくべき教えだと思いました。また、ニャーナラトー師の誠実なお人柄と笑顔により、リラックスして貴重な法話を聴けました。大変ありがとうございました。

   勉強会 N.M
 私は、他の参加者の皆さんのように、初期仏教について知識も智慧もまだ持ち合わせていませんが、ニャーナラトー師が平易な言葉で話してくださり、また、言葉の端々に暖かいお気持ちがにじみ、時に、目を閉じて吟味して言葉を選ばれているのが、印象的でした。私は、講話を聴かせていただくのは、2回目ですが、毎回、この上なく上質な癒しをいただけたような安らかな気持ちになります。

  勉強会 T.N
 ニャーナラトー師のいつも優しいお人柄の法話を通して、アマラワティー僧院のアジャンチャーの説くダンマの教えを、京都で聴かせて戴くのは有難い機会と考えています。ダンマの教えが、じわじわと身に着くようです。質問の時間がたくさんあって、その後に個人的に質問する機会も持てるのも有難いでした。いつか、ヒリ オッタパの壁画のあるアマラワティー僧院まで出向いて、短期間でも瞑想修行に参加してみたいと思いました。

   勉強会 T.A
 冒頭に、ニャーナラトー師の関西弁の「もう、これでええやん。」ということに対して感じたことは、吉水さんはじめ、お寺を支え協力される方々の準備、行い、それらによって、この会のそれ相応の結果は自然と現れているのだと思います。私はまずは、そのことに感謝、隋喜致します。
今回のお話の中心は、ottappa 慚(恐れを感じる)hiri 愧(恥を感じる)これらの法で世の中は守られている、dhammapāla(世間守護法)とのことです。
大胆な例でいくと、駅のホームで、おとなしく黄色や白線の前で待っていられることや(恐れ)、それなりの規律で、人が順番通りに並んでいること(恥)、朝からパチンコ屋の前で並んでいるような人もその働きは機能していると思います。物事の法則、決まりを常識的なレベルで守ることで、その人の幸福は守られる。それは渇愛(生存欲、恐怖感)が道徳的に進化したバージョンのようにも見えます。
※渇愛:存在欲、非存在欲、欲愛 こういったことをお釈迦様が説かれるのは世間で幸福に生きることもそうですが、心を成長させ、完成することにこれらは必要な要素なのだと感じました。今回の法話では、自己観察的に、これをしたら恥ずかしいことだなあ、という風に見て、心に空間、スペースを持ってみましょう、そういった時に、一旦停止して踏み留まってみましょう、というようなことを師は仰っていたと思います。
私としてはその空間に、そのようにただ見る日常生活の実践の中に、落ち着きがあり、今ここに気づく隙間ができると思いました。これは知識レベルの話ですが、(kusala、akusala)に関してですが、ニャーナラトー師は善悪という訳について、多少の違和感があったようです。水野先生パーリ語辞書によると、巧みな、善巧という訳があるので、個人的には(巧み、巧みではない)、(上手、下手)というような訳とかでも良いようにも感じました。
釣り針のない釣りの例えについて我々は六処から入ってくるデータに引っかかります。行為の習慣性、自分自身の思考パターン、こうであるべきという先入観、そのようなポテンシャルがあります。感覚器官に触れて、感じることが縁となって、そのポテンシャルが衝動的に結果を出すことになる。妄想、雑念が起きること、そこに、根を張っているのは執着であり、瞑想実践で”釣り針のない”ということは、執着の機能を一旦停止させることにあると思います。釣り針があると、欲の対象、怒りの対象に引っかかります。この例えは釣り針なので、対象は魚などなのでしょう。瞑想実践で感じたことを快であれ、不快であれ、そのどちらでもないものであれ、あれやこれやと考えること、評価したがる、この瞑想方法で良いのだろうか等、妄想、思考することは、因縁がきちんと法則通りに従って働いているということになるのだと思います。釣り針で釣れてくるのはすべて苦しみしか釣れてこず、釣り針自身もただの現象で滝で流れ落ちてできる水の泡のごとく瞬時に現れて消えちゃうものだよと、見たとき、引っかかりは成り立つものなのでしょうか?という感じで私自身は理解しております。
私としては、吉水さんに対して答える形ですが、メールがハッキングされようとも、例え知らない人に読まれたとしても、hiriの精神で、何かしら内容をツッコまれたとしても、それはかえって私自身のネタの肥やしと勉強になります。パソコンのキーボードを叩きつつ、自分の今できることに集中すること、上手(kusala)にしてやろうということには、それはhiriが支えとなっております。そういったポイントが勉強になりました。これからの法話のテーマや内容のネタに役に立って頂ければ幸いです。
sabbe sattā bhavantu sukhitattā 生きとし生けるものが幸せでありますように。

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