FC2ブログ

第五回初期仏教勉強会レポート 平成二十九年 九月二十八日 於 安養寺本堂

28.jpg

              その一 基調法話編 吉水秀樹
 ニャーナラトー師の基調法話は『輪廻の危険を見る者』についてでした。このテーマが選ばれた経緯は、私が師の口から以前聞いた「輪廻の危険を見る者」という言葉が気になり、その後いく度となく冥想中に私の脳裏を過り、そのことについて事前に会話したことがきっかけです。
 パーリ語で出家者のことをbhikkhuと言います。漢訳では比丘となります。ニャーナラトー師は比丘です。比丘の意味は二つあります。一つは、「乞う者」です。もう一つが「輪廻の危険を見る者」です。
 私がこの質問をした理由は、以前は「怒り」や「貪欲」の感情の芽を察知したときにこの輪廻の危険を感じていたのですが、この頃は夕食を食べるときなど、何か楽しみなことを目前にしてこころの高揚を感じた時に、この輪廻の危険を意識し始め、もっと深く検べてみたいと思ったからです。
 今までは夕食を食べることに疑問を持つことはありませんでした。しかし、テーラワーダ仏教の出家比丘に出会って、午後の食事を摂らないという戒めがあることを知り、自分の姿を省みるようになったからだと思います。
 ニャーナラトー師は、最初にアチャン・チャーの言葉からコブラの喩えを教えて下さいました。普通の人は猛毒を持つコブラの頭は危険なので、コブラの頭に不用意に触れることはしません。
しかし、愚者は尻尾なら大丈夫と思って、尻尾をつかんでしまいます。コブラは簡単に身体をくねらせて、毒牙の危険にさらされてしまいます。この喩えは、「善いこと・楽しいこと・楽」であっても、それに執着することで最終的に苦しむことになるという意味です。それを「輪廻の危険」とし示して下さいました。
 これは私の感じていた事と一致してきます。夕食を楽しみにすることは悪いことのようには思えませんが、期待をし過ぎると期待外れのときには不愉快な気持ちになってしまいます。また、もっと愚かな人は行列のできるような店に時間や労力お金をかけて食べに行って、期待通りでないと怒りの感情を出して不幸に陥ってしまいます。午後の食事を摂らない比丘と、行列のできる店に並ぶ凡夫との違いは歴然で、これが「輪廻の危険を見る者」比丘の姿です。
 もう一つ喩えは、中国の「太公望」の話しです。太公望は釣りをしていたのですが、何とその釣竿の先には釣針がついていないというのです。皆さんも釣りをしない人でも釣りという実感は理解できますね。海辺にでも立って、釣針に餌を付けて獲物を狙う感覚です。さて、その釣り竿の先にはただ糸があるだけで、釣針がないとどんな感じがしますか?
この感覚を実際に感じてみてください。ニャーナラトー師はご自身の経験かから「居心地が悪い」感じと仰いました。気持ち悪いと言うのか、「何か変」という感じです。針がないと当然引っ掛かるものもないし、獲物が釣れるはずもありません。釣りたいという気持ちも、魚を追う感覚も生まれません。この「居心地の悪い」感覚こそが実は仏道、冥想ではとても大切というのです。ある意味で「生きている実感がない」とか「重さがない」「探すものがない」「色がない」、doing nothingとも表現できます。
 そもそも、苦しみが起こる原因連鎖(輪廻)をお釈迦さまは縁起として説かれました。十二支にわけて十二縁起といいます。十二縁起の始まりは「無明」であり、これは文字通り「明かりがなく見えない」「無智で真理が見えていな」という意味です。十二縁起では、「無明」の次が「行」で、saṇkhāraサンカーラといいます。サンカーラは一種のエネルギーのようなもので、「形成力」とも訳されます。「感情」とか「~したい」というエネルギーと考えても間違いではないと思います。無智があってもそれだけなら、何も起こらないのですが、そこに凡夫は行動の源となるエネルギーが縁りて、縁起の回転が始まります。これが輪廻流転の始まりです。このサンカーラが曲者なのですが、先の喩えで言うと「釣針」がそれにあたります。釣針がないと何にも引っ掛らないので、苦しみの種がないのですが、釣針を持っていると何かにつけ引っ掛かりが生じて、問題が起こります。まさに、私たちが生きているという実感がこれになります。生きているという実感は釣針のある状態です。
 この釣針のない釣りの真相は深いです。普通の人は釣竿に釣針をつけて、獲物が釣れるように釣針を調整することが人生のようです。比丘の生き方は釣針のない釣りとも言えます。またそれは、「輪廻の外にある」「普通でない」妙な生き方なのです。それで比丘の姿もどこか変なのだと、ニャーナラトー師は自分で笑って仰いました。
普通の人が比丘に会ったり、お寺に来ることが、何かしら違ったあり方に出会う貴重な体験となり得るのも、このような妙な生き方があってのことです。
 最後にアチャン・チャーの言葉から、「因果を超える」「因を離れて、果を超える」という意味のタイ語の説明を交えて法話をされました。
要約すると、普通の人々は「こうしたら、ああなる」「こうしたら、あれを得られる」「これをしなかったら、あれは得られない」という、因果の中で日々の生活をしています。この因果関係が生き方の基盤になっています。これは当たり前のことで、これが釣竿に釣針をつけて調整し、獲物を期待する普通の生き方です。しかし、輪廻の危険を見る者は、この輪廻の中での生き方を離れて、釣針を捨てて釣をするような生き方になります。獲物が釣れることは一生ないし、釣りをしているようで、本当は釣りさえしていないのでしょうか。

レポート その二  質疑応答編
『因果と縁起の違いについて説いてください』
これは大変基本的で重要な質問です。私の言葉で説明します。
★「因果」とは、原因と結果の関係です。仏教では「善因楽果」(善因善果)「悪因苦果」(悪因悪果)と説きます。これは常識レベルで理解できることです。
「受験勉強を頑張ったので試験に合格した」、「不倫をして不幸になった」など主に時間の流れの中での大きな原因と結果です。これを理解して実践することも立派な仏道です。しかし、「縁起」を理解するほど、仏道の中核になることではありません。
「縁起」はもっと肝心要な、それらの因果のプロセスを説いたものです。もっと言うと、「因」のプロセスを説き、「果」のプロセスを説くのが「縁起」だと思います。そもそも「仏教を学ぶとは、縁起を学ぶこと」です。パーリ語辞書で有名な水野弘元先生は「仏教とは何かと一口にいえば、それは縁起を説くものである」と明確に断言されています。パーリ語経典のブッダの言葉のなかに、「縁起を見る者はダンマを見る、ダンマを見る者は縁起を見る」とか、「縁起を見る者はダンマを見る、ダンマを見る者はわれ(ブッダ)を見る」という言葉があります。縁起を正しく見て理解する者は、必ず仏法を正しく見、そもそもダンマとは「縁起」をもって代表されるということです。
 さて、その「縁起」とは何かと一言でいうと、「縁りて起こること」です。「縁りて」は「条件によって」と理解できます。「起こること」は、「起こる道理」です。つまり、縁起とは「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」です。
また、「縁起」を説くブッダの有名な言葉が次の句です。
「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す」
 ヴィパッサナー冥想される方は、何を観察しているのかと一言でいうと、これも「縁起の観察」をしているのです。冥想をしていて「音」が聞こえます。玄関チャイムの音だとします。そこで、勝手に「クロネコヤマトの人だ!」と思って、感情が生じて慌てて冥想をやめて玄関に走る人もいると思います。行ってみたらその通りの事が起きている場合もありますが、まったくの思い違いの場合もあります。
さて、これでは冥想にはなりません。「音」が聞こえて、その対象が「玄関チャイム」だという想念が生まれます。次にやっかいなサンカーラ(行=感情)が生まれます。これが先日の「釣針」です。「そういえば昨日amazonで本を注文したわ! きっとその本の配達に違いない!」と感情と妄想が始まります。この時点で「気づき」(サティ)を入れて、放っておく、捨てることもできますが、気づきのない人は玄関に走って、危険な輪廻にまきこまれて行きます。
このような「縁起」を明確に見る人は、感情に左右されることなく、そのまま坐っていることも、落ち着いて対処することもできます。当たり前のことですが、「縁起」は、常に今ここで起きています。生まれてから死ぬまで、ずっと続いています。縁起は脳内で実際に起きている現象です。「生きる」ことの最小のプロセスです。この脳のシナプスの連鎖反応の最小単位が「これありてかれあり」です。この刹那の自分の人生の最小のプロセスに気づいた者は、その瞬間に自分の人生を100%自由に導くことができます。なぜなら、最小のプログラムを観察しそれを消し去る法を理解したからです。
 ブッダが2500年も前に、すでにこの縁起の法を発見して明確にその実践法を説いているのです。それがヴィパッサナー冥想です。パーリ語経典に次のような言葉があります。
Yaṃ kiñci samudaya dhammaṃ sabbaṃ taṃ nirodha-dhammaṃ 日本語に訳すと、「あらゆる生起の法は、すべてこれ滅の法なり」となります。
 十二縁起を理解するのは大変ですが、すべては「滅の法」であることを理解されたらよいと私は思います。nirodhaニローダという言葉です。nirodha-dhammaṃとは「消滅の法」「滅法」です。
 「これなければかれなし」、何か自分の無意識にしていることに気づき、縁起を見て、それ明確に観察したら、輪廻の危険を見る者になります。コブラの頭である、コブラの尻尾であると、明確に見る者は、それを掴むことはありません、そこから離れられます。縁起を見たら、本来の姿に戻り、幸福になれるということです。

レポート その三 質疑応答編
 ★実践冥想について
『doing nothing. 何もしない、これだけでは余りにも不親切で、「ただ座れ」と言われているのと変わらないように思います。私の経験では、テーラワーダ仏教に出会って、実況中継や身体の感覚の観察など、さまざまな方法を教わって、それが私にとっては眼から鱗が落ちるようなブッダの冥想実践との出会いになりました。ただ、それらのメソッドは自転車の横玉のようなもので、やがて自転車に乗れるようになれば必要なくなるだろうと思っています。さて、ニャーナラトー師は実際に初めての方に冥想指導をされる時は、どのような指導をされるのですか?』
これは私の質問です。ニャーナラトー師は、「呼吸観察」や「実況中継」マハーシ方式のメソッドをあまり言われないように感じたので、師の冥想法について尋ねたわけです。
私の考えていることを理解された上で頂いたアドバイスを私の言葉でまとめます。この内容をまとめるのは難しいので、私の学んだこととして考察します。
 一つは、「集中」と「気づき」の違いです。どうしても冥想というと、集中のイメージが強いのですが、ブッダの冥想は飽くまでも「気づき」こそが肝心です。それは「境地」とか「何者かに成る」「達成する」こととは違います。どこまでいっても「気づき」であり、どこまでいっても「観察」です。そういう意味では到達することのない世界であり、「悟り」や「涅槃」という概念が崩れます。

  ★立ち位置
師の言葉で言うと「立ち位置」こそが肝心で、いつでも「立ち位置」に戻ることが冥想とも言えます。「妄想してはいけない」という世界ではなく、そこに気づいたら、ただ「立ち位置」に戻るということでしょうか。
「Doing nothing. 何もしないって…、いったいそれが何になるの!」その「何になるの!」が釣針であり、しっかりと何者かになりたいという衝動を握っていることになります。
「立ち位置」や「ものの見方」が大切なのであって、「答えを探す」「何かを求める」ことは必要ありません。「答えを探す」ことが釣針になってしまいます。思考や妄想の量は問題ではなく、「立ち位置」こそが肝心ということです。

  ★駅と電車の喩え
 アチャン・チャーは、こころを「駅と電車」に喩えて説かれたそうです。駅にはさまざまな電車が到来します。満員の電車、空の電車、特急電車・各駅電車、駅にたくさんの電車が有るときもあれば、空っぽのときもあります。冥想においては、電車に煩わされないことが大切です。電車は放っておく、電車への対応に煩わされたり、好きな電車、嫌いな電車と一喜一憂するのではなく、「駅に戻る」「駅に安らぐ」、駅というあり方が肝心要なのだと。
 サマーディ(禅定)と言われるような統一感や、覚りの境地を思い描き、それを目指すことに私たちは捉われやすいのですが、これがコブラの尻尾であり、冥想の境地とは通り過ぎてゆく電車である。例え七つ星の光り輝く電車が来ても、それはただの電車であり、輪廻の中の出来事に過ぎないと達観して、駅に安らぐ、これが師の冥想実践の要のようです。
 ニャーナラトー師ご自身の経験から、自分が何かになる、何かを手に入れることは根本的にしんどいものであると気づかれて、落としていく、手放す、冥想は何もしないことという、「方法」や「~する・しない」ではない中道を見つけられたのだと理解しました。
 兄弟子にあたる、アチャン・スメードー師からは、「微かに聞こえる音」「沈黙の音」に安らぐ、雨音や微細な風と共に安らぐといったことを学ばれたらしいです。
 釣針の無い世界や、駅にたたずんで通り過ぎる電車を眺めている感じでしょうか。このような「立ち位置」が師の実践冥想のようです。
 釣針の無い釣り。電車に乗らないで駅で安らぐ。ただ掴むのをやめる。手放す。冥想中に静かに眼を開けても、対象に向かわない、対象に向かわないので、分別が無い、見解が無い、このような楽さがニャーナラトー師の冥想であり、ありのままなのだろうと私は理解しました。

レポート その四 質疑応答編
 
★仏教(冥想)では、落とす、手放す・捨てる・離す・気づく、といった言葉があるが、これらの実践的な意味について…
 英語では、let it go. Letting go. タイ語では「プロイワン」、日本語では「手放す」「放置する」これらの言葉は、ニャーナラトー師も入門当時から耳にタコができるくらい聞かれたと、しかし、見事に勘違いしていたという自身の経験から話して下さいました。
 これらの言葉は動詞なので、「手放すことをする」「落とすということをする」というように、「すること」だと思い違いをしていたと。本当はそれらとは正反対のアプローチで、「するのをやめる」「掴むのをやめる」「何もしない」…
 確かにこれは冥想実践者の登竜門だと思います。私たち凡夫はコブラの頭や尻尾をしっかりと掴んで、それで「どうしたら手放せるのか?」「どうしたら幸福になれるのか?」と思い悩んでいる。これは別の喩えで言うと、無明に覆われた私たちは、氷でつくられた仏像を見て、美しいと感じるだけでなく、それを欲しいと思い、家に持ち帰ろうと努力奮闘して、もがき苦しんでいる。「気づく」というのは、「何かをする」というより、ただありのままを明確に見て、「なんや、氷やん!」と、真相を見たものはそれを持ち帰るような愚行はしない。真理を知れば掴もうと思っても本気にさえなれない。

 ★『膨らみ縮みで、今ここに戻れる人はいがいに少ない』
 私の質問に対してニャーナラトー師が言われた何気ない言葉です。解説のない一言でしたが、後々私は考えさせられました。
私の独り言ですが、スマナサーラ長老がお腹の膨らみと縮みの観察を坐る冥想の中心にもって来られるのは、これらが生まれてから死ぬまで一貫して、常に「今ここ」にあるものだからだと思います。私は冥想の大方をこれに費やしています。
理論的には、お腹の膨らみと縮みを観察することで、一瞬にして迷妄から離れて「今ここ」に戻ることが可能です。しかし、言葉の世界を超えてこの冥想実践の真相は、輪廻の世界から、次の瞬間に努力や時間もかけずに涅槃の世界へ移行することとも言えると思うのです。
 人によって、「今ここ」観察の精度は違うと思います。膨らみと縮みと言っても、それを暗闇の中で電池の切れかけた懐中電灯で探すようなレベルのものもあれば、白昼の光明の中で明確にレイザーの如く実相を見るものまであると思うのです。
事象が生滅、生滅と変化している実相を見るとき、「妄想→気づき 妄想→気づき」と、こころが流れている様にも見えます。気づいたときに、完全に妄想が消えれば、妄想が痕跡を残すことはありません。そこに完全な間合があり、そこは自由であり、時間や思考の影響はありません。それは輪廻→涅槃・輪廻→涅槃という、今ここにある実相のようにも見えます。
たいそうな話しになりましたが、「膨らみと縮み」の観察と言っても、それをなめてはいけないと思うのです。本当に力を抜いて、明確に観察したときに、「膨らみと縮み」の観察で今ここに戻れると思います。その瞬間にすべての過去から自由になれると思います。それが釣針のない姿であり、立ち位置であり、駅に安らぐということなのではないかと思うのです。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント