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第四回初期仏教勉強会レポート その二  吉水秀樹


  『戒禁取見(かいごんしゅけん)について』
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 私の個人的な疑問から、戒禁取見(戒禁取)につてニャーナラトー師に尋ねました。私には学びになりましたが、会場に来られた多くの方にとっては、聞きなれない仏教用語の意味など、疑問が残る質問になってしまいました。そのような経緯があって戒禁取見についてレポートします。
 戒禁取見を一言でいうと、戒律や儀式に執着することです。そのために一般の人は、「それなら私には関係ない」と思われがちです。確かにお坊さんがこの問題に出会う確率は百%ですが、仏教に関心のない一般の方には、むしろ社会の常識に位置するものなので、問題になり難いテーマです。しかし、ニャーナラトー師も仰られたように、これは大問題なのです。師は広い意味では、cultural invention 文化的慣習とも説明されました。文化に対する執着は予想以上に根深く強烈なものです。イスラム教文化とキリスト教文化の人々から戒禁取見が無くなったら世界が平和になることは間違いありません。日本でとんこつラーメンの店は繁盛していますが、イスラム文化の国でとんこつラーメンの店を出したら、人間の食べ物ではない、非常識として排除されることはまちがいありません。
 ここからはスマナサーラ長老が書かれた『縁起の分析』などをもとに、戒禁取見について私なりにまとめてみます。
 輪廻に結び付けるシステムについて abhijjhā kāya-gantha(強い欲・集まり・結ぶ)
長老の『縁起の分析』によると、こころの平安を妨げ、輪廻からの解脱を邪魔する、「強い欲で結ぶ四つのシステム」があるということです。
① 強い欲 ②強い怒り ③戒禁取見 ④「これが真実だ」と執着する、以上四つです。
その中の③が「戒禁取見・戒禁取(sîlabbataparâmâsa)」です。
sîlaは「戒」です。bbataは「いろいろな修行」です。Parâmâsaは「固執すること、信じること」です。簡単に言うと「邪見」のことであり、「間違った考えに執着すること」です。「間違った考え」というのは誰にでもあるので厄介です。戒禁取見は、間違った見解に固執して離れなくなることなので、これがあると輪廻に結び付けられて、智慧が働かず解脱に至りません。
 さらに説明すると、儀式儀礼、宗教的しきたり、苦行などによってこころが浄らかになるという観念的な思考や、儀式や儀礼をきっちり守りたい、威儀作法・戒や律に強くこだわることです。礼拝は三回するべきだ、焼香の作法にこだわる、線香の数にこだわる、お経の読み方や法式、衣の着方と仏具の持ち方など、これらの雑事にこだわることもこれに該当します。
自覚があるかないかは別にしても、日本仏教の多くのお坊さんにとって、この戒禁取見は笑い事ではすまされない大問題なのです。「そうは言っても、かたちは大切だ!」と聴く耳のない方も多いと私は思うのです。
 私は正しいか正しくないかはわかりませんが、戒禁取を広い意味でとらえて、「戒取」は「~するべき」、「禁取」は「~してはいけない」と考えています。「~するべき」と「~してはいけない」の両極に執着することが、戒禁取の根本だと思うのです。お坊さんから、「~するべき」「~してはいけない」の二つを取り除いたら、いったい何が残るのだろうと考えたりします。だから、これは大問題だと思うのです。
 この両極への執着があると、こころの平安が得られず、解脱には至らないことは間違いないと思います。日常の私たちのありのままの姿をよく見てみれば、この二つの両極にいかに縛られて生きているかは、お坊さんに限らず、すべての人々の深刻な問題だと思うのです。
 ある意味でブッダの説かれた修行は至って簡単です。ヴィパッサナー冥想がそれです。私でも、初心者の方に三十分ほどあれば冥想の説明ができます。私も長老に直接そのように説明して頂きました。長老は「これで説明は終わりです。あとは実行さえすれば解脱できます」とアッサリとハッキリ語られました。しかし、いやいや日本の禅の方が奥深い、坐り方・手の置き方・視線の位置、厳密に形が決まっていて、テーラワーダ仏教なんて、小乗のインチキ仏教だと言う人もいるかもしれません。かたちが決まっていないものは「修行」と認めない、と考える人も多いと思うのです。
 ブッダの教えはいたってシンプルです。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根と、色・声・香・味・触・法の六境が世界です。六根と六境が触れて生じる感覚への執着(渇愛)が苦しみの正体です。ですから、修行とは自分の感覚を守ることであり、感覚への執着を捨てることです。これがブッダの冥想のすべてで、こころを浄らかにすることです。
 しかし、多くの宗教では、諸悪の根源は外界にあり、儀式で身体を浄めることで、こころも浄らかになると信じて、さまざまな儀式を推奨します。聖水やガンジス川の沐浴でこころが浄らかになるのなら、フナやドジョウのほうが私たちより先に解脱することになるでしょう。また、女性を見たことで性欲が生じて惑わせられるので、女性の身体は全身を隠して目だけを出すのがよいとか、美しい音や御馳走に触れて貪欲が生じるので、それらに触れることのない山奥で隠遁生活をするというのも、問題が外の世界にある、外の世界を浄化すれば、幸福もこころの平安も得られるとする、人間の間違った考えがベースになっていると思います。
政治家の政治活動も、戦争も、現代社会の姿がそのまま、すべて外の世界を変えることに終始しています。高速道路や新幹線が整備されて、ますます人々が忙しくなり、こころのゆとりがなくなったことも、外の世界の問題にのみ目を向け、こころの浄化に努めず、外界を変えることにエネルギーを費やす人間のこの間違った考えの証明です。
 ブッダの教えはこれらの考えの正反対で、こころが本当に浄らかになった人だけが、周囲の世界に平安をもたらすことができるという考えです。ですから、何をおいてもいの一番に自分のこころを浄らかにするのです。
 こうして考えてみると「戒禁取」は、かたち・形式・外見・外の世界に依存して、肝心なこころの浄化、冥想修行を後回しにして、悪霊がいる、平和を乱す敵がいると、問題が外界にあるとする迷いの道だと思うのです。
 戒禁取見は、物事の本質が見えているか否かの大問題です。世俗に生きる私たちの人生にとっても、道徳・規則・規範は大切です。しかし、、それらに何一つ執着しない、それをもって自分は正しいとしない仏教者の生き方の肝心要が「戒禁取見」のテーマだと思うのです。
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