生きることは苦である 

  降魔100
 
  生きることは苦である
ブッダか最初に説いた真理が、「生きることは苦である」という内容であったと言われています。仏教を学びはじめて40年経過して、なぜはじめに「苦」を説いたのかが自分で納得いくようになりました。
先日、仏教をよく理解している若い女性から「人生は苦である」という意味がピンとこない…、と尋ねられました。「人生は苦である」というのが真理なら、なぜみんな生きているのか? とも尋ねられ、話し合いました。
 ブッダがはじめに「苦」を説いたのは、それが一番理解されやすいからだと思うのです。つまり、意に反して年をとり「老いる」こと、壊れていくこと。どんなに健康な人も必ず「病」にくっすること。この世の最後の姿が「死」であること。生老病死の四苦からは、何人もまぬがれません。
 しかし、その女性の言い分は、「人生は苦である」と言われてもピンとこないというのです。正直な意見です。私たちの多くの人生観は、「人生は苦である」ではありません。
 生きることは素晴らしい。生命は尊い。これが私たち多くの人間の人生観なのです。ブッダの語った真理の真逆です。

「人生=苦」は、確かに「苦」のイメージが固定化しすぎて理解しにくいと思います。
私は、「生きることは虚しい」「生きることはたいした意味がない」「私たちの人生は現世で利益を追求することに尽きる=虚しい」「幸福感の追求こそが人生=他の幸福、真の幸福を知らない=愚か」「涅槃の安らぎを見ようとしない=無智」。そうして、「生きることはdukkhaなのだ」と理解しています。
それで、苦の中味は「苦と楽と不苦不楽」「楽しみを追求することが苦を生み出す」と理解しています。

 先日の、冥想研究会のテーマが「恐怖からの自由」で、そこで、まず「快楽=pleasure」を理解することが大切だとクリシュナムルティが語っていました。その中味が大変深いものでした。 Pleasureの追求が苦しみを生み、多くの人の人生は、pleasure の追求に終始し、その犠牲になっているのではないですか? Pleasure=pain を知ろうとしないので、快楽の追求で人生を棒に振る、というクールな指摘です。

私は自分の具体例で、その真相を説明しました。日々の私の夕方以降のありのままの姿を話しました。
一日の活動を終えて夕刻になると、実は私は興奮して冷静でなくなります。こころの中は、「お風呂に入ること」「風呂上がりにビールを飲むこと」「美味しい料理を求めて、自ら用意して食べること」「腹いっぱいになって甘いものまで楽しんだら、部屋でパソコンで遊んだり、海外ドラマを見たり…」、気づきが0に近く、pleasureの追求一色で、最後は疲れて眠ります。 
ある日の夕方、ふと自分のその姿に気づきました。人間はありのままを見ずに、快楽を見ます。その日夕方、自分の姿を見たら、まず汗をかいて身体が汚れていて気持ち悪いです=苦。喉が渇いて、水分が欲しいです=苦。お腹も減ってひもじいです=苦。やはり、そこにはありのままの事実として、「苦」がありました。しかし、そのありのままの「苦」を見ようともせず、「快楽」だけを見ている私がいました。この姿が”dukkha”です。
世界中のほとんどの人が、夕刻になると、私と同じ「快楽だけを見る」ゾンビのようにpleasureを求めてさ迷っています。来る日も来る日もそれが続きます。そうして、輪廻の苦界に飛び込んでいきます。私たちは悪魔の誘惑の言いなりになって生きています。これが病気なのだと理解しました。Dukkhaは、私たちの姿そのものだから、見え難いのですね… このくらいにしておきます。
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