『冥想の実際』


 ブッダの冥想とは、ありのままの自分、今この瞬間に完全に目覚めること以外の何ごとでもありません。
 ある朝のことです。爽やかな朝で、外では鳥の囀りが聞こえます。遠くからセミの声が聞こえ、カラスは北の空から南の空へ鳴きながら移動しています。私は本を書くのに漢字の送り仮名を調べようとパソコンに向かっていました。インターネットの画面を開くと隅に若い女性の姿がありました。その画像に目をやると突然その女性の姿が拡大して画面に浮かびました。それは下着の会社のコマーシャルで、ふくよかな胸の谷間と下着のラインが強調されてエロスではありませんが、女性の柔らかさとふくらみの質感に魅せられます。
 さて、この感覚は快楽でしょうか? それとも苦しみでしょうか? ここち悪いわけではありません。しかし、私の目的が漢字の送り仮名を調べることなら、これはその目的を邪魔する誘惑に違いありません。目的を捨てればつかの間の至福を味わえるのでしょうか? よくあることですが、これが人生のありのままの瞬間に起きた実際です。この瞬間に起きたことが「葛藤」であり、人生に起こるすべての問題の根本原因です。私は幸いこの瞬間に目覚めることができました。
 私は20インチの液晶画面を見て、過去の習慣力から感情が生まれてその画像に誘惑されて目的を忘れかけています。見ているのは若く美しい女性ではなくて、パソコンの画面の液晶です。次の瞬間には扇風機の風を感じ、カラスの声が聞こえました。生じた感情は一輪の花のように咲いて枯れました。それは怒りでも抑圧することでもなく、若く美しい女性が老婆になって死を迎えたような自然ななりゆきです。こころに浮かぶ事象と戦うことなく、その一部始終のありのままを見ます。
 人生とは感覚に触れることです。音や光や色の感覚に触れると、何かが生まれては消えていきます。本当にあるのは、生と滅だけでそれ以外は何もありません。実体は無くすべてが生滅しています。これを無常といい冥想は無常を観察するものです。すべては無常であり、実体が無く無自性(無我)です。
 これが冥想の実際であることが理解できるでしょうか?
 ありのままの自分に目覚めていることです。ありのままの事実を見ることです。私は尊い存在ではありません。いつでもそこにいる私は、哀れでちっぽけです。それがありのままの私で、その私に気づいたら私は消えてなくなります。それは安らぎです。
「すべては無常です 生じては滅し、滅しては生ずる、すべての生滅が滅し終わることが安楽です」とはブッダの言葉です。
 この出来事の実際は、約10秒間の出来事です。こころに起こるありのままに気づいていることは楽です。つねに選択の自由があります。感覚に触れて現れるものは、過去の習慣力(業)によるもので、知識や記憶です。しかし、それらに気づくことで、それら(業)に支配されることはなくなります。そこに自由があります。
「さあ、弟子たちよ 諸々の出来事は消えていく、一刻も早く速やかに気づき、人格の完成に至りなさい」これは涅槃経にあるブッダの最期の言葉と言われています。
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