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 『ヴッパッサナー冥想の道標』

 パーリ語勉強会報告 平成28年4月28日 木曜日 安養寺庫裡

 『ヴッパッサナー冥想の道標』

 パーリ語勉強会の中で、何故かヴッパッサナー冥想の実際について話し合いました。
冥想はしているが、色々な疑念が浮かぶ。呼吸に集中してるけど、これで良いの?
そこで、冥想の道標(みちしるべ)について考えてみました。

私が言うのもおこがましいですので、自慢話に聞こえたらご容赦下さい。
長老の本に出合ったその日から冥想を始めました。
もう五年以上経過していますが、冥想に不安を抱いたことはありません。

・冥想が一日の中心にある。
・冥想の実践は千回を越えていますが、居眠りは数える程しかない。
・たぶん楽しいのと、やることがハッキリしているので居眠りの暇がない。
・冥想はこころを育てる(ヴーバナー)ことで、育っている実感がある。
・自分の思考が手に取るように見えている。
・感情に気づくのがすばやくなる。
・今まで知らなかった喜びの発見がある。
・自分が三毒の衝動で生きている愚か者である自覚がある。
・冥想に期待するものがない。ただやる。
・冥想と実生活のかい離がなくなる。
・道徳的な人間に成長している。悪口、噂話、無駄話の衝動に気づいてとどまる。

 日常的にはこのようなことが道標になっていると思います。
また、七覚支と言われる専門的な道標もあります。
 まず、呼吸に集中するのは、日頃の私たちのこころは錯乱混迷の状態であり、そこから離れるという自覚がいると思います。
長老に教わった、冥想の始め方の作法などぶっ飛んでいて、初めの三回の深呼吸すら落ち着いてできません。
慈悲の冥想をしても、どこを唱えていたのか忘れて、思い出すこともできずに、私たちは気づきゼロの痴呆状態から冥想が始まります。

(※私は座る前に自分を、愚か者・戯けもの・無慈悲・無自覚の救いようのない地獄行きの決定者と見ます。
テーラワーダでも、大乗でも、実は日常勤行の「懺悔偈」の中味はこんな意味です。
「私はアホです。このままでは地獄に堕ちます。」と認めることです。)

 ですから最初の覚支は無智の私から「気づき」の力を育てることです。
身体の感覚、今ここの呼吸に気づくことから初めて、「気づき」satiに努めます。
膨らみ、縮み、と言うのも、気づきが進むと単純な対象ではありません。
一回の膨らみでも、空気が鼻から入り、鼻腔を通ります。その感覚にも気づきます。
温度や湿度も感じます。下腹部が膨らみ、同時に手と膝の接点も0.01mm位は動きます。
肩の位置も上がり、身体の各部の感覚も変化します。出で行く空気と入る空気は温度も違います。
呼吸は全身運動です。呼吸という言葉はありますが、言葉とそのものは別物です。膨らみという言葉と膨らみそのものは別物です。
つまり、呼吸とは無常のことです。呼吸の観察自体が無常の観察です。
歩く冥想でも意志がないと、進むことも立つこともできないと気づきます。
身体とこころの二つしかないと理解できます。膨らみを数秒単位で観察していたのが、1秒→0.1秒と、刻々と変化する無常の観察に移行します。
気づきの純度が成長する念覚支と言われるような道標があるのだと思います。

 気づきの力が育って行くと、現象やこころの動きがより明確に見えるようになり、智慧が働きます。
考えたことが事実ではないこと。言葉はそれを示しているものではないこと。
手・足・畳・ペットボトル・カラス…、名称とそのものは別物です。
前の現象と今の現象、前の瞬間と今の瞬間はまったくの異うことが強烈鮮明に見えてきます。
刻々と思考が変化するので、自我が妄想であったと感じます。
本当にあるのは「物質」と「こころ」の二つだけです。名色の分離智慧が顕われて育っていきます。
 日常生活で人に嫌なことを言われて、「この人は嫌な人」と思っても、それは事実ではなく、自分の思考であると理解できます。
「この人は嫌な人」「これはピーマン」は私の妄想です。
そのような感情と思考に敏感になり、思考が事実ではないことが瞬時に腹に入ります。
すかさずに「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じたり、こころが自由です。このプロセスが3秒程で終わります。悪感情が残りません。
新たな対象に出会っても、「怒り」と「微笑み」を「うどん」か「そば」かのように自由に選べるこころに育ちます。

長老の解説によると、覚支は順に現れてきます。念覚支→択法覚支→精進覚支…と、
択法覚支とは、気づきを保って現象を観察すること、現象を法(無常・苦・無我)で分別し、因果法則を観ることです。
 そうして正しくヴッパッサナー冥想を実践すると、「喜び」が生まれます。
ピティPītiと言って、世俗的な「わぁ嬉しい」という感情ではなくて、たいへん穏やかで静かな喜びです。
微細な音や、首筋を通る風の感覚、あるがままに喜びが生まれます。
世俗の世界から離れた、悪業をつくることのない喜びで、ヴッパッサナー冥想を続けて到達した境地なので、尊く誇らしく思えます。
喜覚支と呼ばれています。(※詳しくは『ついに悟りをひらく』七覚支冥想法 A・スマナサーラ著を参考にして下さい。)
 
ヴッパッサナー冥想では、集中力(サマーディ)は道具に過ぎません。それを目的にすると他の冥想になってしまいます。
しかし、大切な道具には違いありません。
 気づき → 気づきに集中する → 気づきの集中の持続 → 喜び → 楽・静寂…、
と一連の流れの中に身をまかせることが楽で大切なのだとおもいます。
冥想の一つの小目標は、
「私は何も望むことはありません。何者かになりたいと思いません。」という小さな悟りではないかと思います。
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