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第七回初期仏教勉強会と冥想会 二〇一八年四月 感想レポート No,3  質疑応答編

  感想レポート No,3  質疑応答編   吉水秀樹
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★質疑応答より
◎“doing nothing”は逃げることではない
 ヘイトスピーチはじめ、悪意ある行為や、この世では目に余る言動に出くわす場合もあります。そのようなときには、何か行動を起こすべきなのか? といったテーマの質問がありました。そのテーマから発展して、私は自分の経験からそのような場合でも、けっきょく”doing nothing”「なにもしない」ことが最善の得策だと思い、そのことについてニャーナラトー師に尋ねました。師はまったく同意されて、そのような場合でも最初にdoing nothingという姿勢をとることは、こころに最大限のスペースを持ち、悩み苦しみ憤りを受け入れことであり、「正しい」あるいわ「間違っている」という、相対性から離れ一切の制限を離れた問題解決に繋がる道であるだろうと説かれました。「なにもしない」ことは、逃げることではなく、具体的な問題解決の場面でも最も有効でポジティブな姿勢だと思いました。

◎子育て親子関係での悩みについて
 この世には親子関係の悩みを抱えている人も少なくありません。お母さんが子どものことで悩んでおられる事例がありました。具体的な解決策の話ではありませんが、私たちは冥想することと、そのような現実の悩みとの関係を師の言葉から学ぶことができました。上手く言えませんが、「あるべき姿」や「理想」から離れる時間は大切で、坐ることでそれらから離れる。すべてから離れる。感情が出てきても、そのままにして離れる。それ以上に患部をいじらないで、離れて自分への慈しみのようなこころもちで見守る。
師はしばし沈黙されて「だいじょうぶだ…」問題はあるのだけど、「だいじょうぶだ」と全部をひっくるめて、「あるがままでよしと見る」… ここでも”doing nothing”に秘められた慈悲の力を感じました。

◎なぜ人は、何もしないではいられないのか?
 いろいろな問題を抱えていても、問題が無くても、人はじっとしていられません。冥想でこころの静けさを得ても、なお何かをしようとします。冥想実践者なら誰もが突き当たる問題ですが、冥想で普段よりこころが穏やかになり、事象の変化を観察できるようになっても、気づいたら「何かをしています」”doing nothing”とこころに念じても、そのdoing nothingをしようとします。この、「何にもしない」ことをしようとする衝動は何でしょうか?
 そもそも渇愛taṇhā とは「欲しがること」です。私たちのこころの中にはいつでも「欲しい」「欲しい」という欲しがるエネルギーがあります。このエネルギーには終わりがありません。冥想でこころの静寂を得たとしても、次に何かが「欲しくなる」わけです。
 上手く言えませんが、”doing nothing”に近づくことは、「死」にも近いです。そこで、こころは死にたくないので、次の対象を探し生き残ろうとします。慌てずに、そういうものだと、観察するより他に道はないのかも知れません。これは「有」に対する執着だと言われています。
  ※三種類の渇愛
☆愛欲 カーマタンハー kâmataṇhâ 
物を欲しがる、五感に刺激が欲しい。食べたい、遊びたい学びたい
★有愛 バワタンハー bhavataṇhâ 生きていたい、死にたくない
☆無有愛 ヴィバワタンハー vibhavataṇhâ 嫌いなものを排除、破壊したい

  ◎現象の生起を観察する
 質疑の流れから、私が一時間ほど坐る冥想をした後、静かに眼を開けると即座にイスとかペットボトルという、分別妄想の命名が始まり、渇愛のエネルギーでこころの回転が衝動的にはじまるのかなぁ…という意味のことを発言しました。そのとき師は、それは因縁の生起を観察しているのではないですか? という意味の言葉をかけて下さいました。私はなるほどと思いました。私は因果法則で自然に起こることまで、否定してしまう傾向にあると気づきました。現象の生起を観察できたら、次の瞬間にそれが自分の分別妄想であることに気づき、消滅の観察が起きて、それで輪廻の鎖が解かれるのだなと思いました。

 ◎真にあるもの
 アビダンマの解説書に「真にあるものは」四つである、その四つとは。
☆rūpa =色 物質 
☆citta =心 こころ
☆cetasika=心所 こころに溶けたもの 
★nibbāna =涅槃。―であるとあります。私はこのことは世界のことで、一方人間を仏教的に言えば、五蘊=色受想行識であり、五蘊とは、
☆色=rūpa 物質・体
☆受=vedanā 感覚
☆想=saññā 知識・記憶・概念
☆行=saṇkhāra 感情・~したい
☆識=viññāna 知ること・考えること・思考。―であると考えていました。しかし、これは間違っていました。涅槃は外して考えますが、この二つは分け方が違うだけで、同じものを言っているのだと理解できました。つまり、私=世界=私の経験です。世界とは私のことで、私とは世界のことです。「色」「心」「心所」と、五蘊の色受想行識はどちらも世界のことのようです。

色  = 色  声  香  味  触  法  = 色
               +
心  = 眼  耳  鼻  舌  身  意  → 識
               ↓
心所 = 眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識 → 受想行

 対象である「色」と、六根の眼耳鼻舌身意=「識」とがぶつかって、「心所」が生まれて、はじめて世界があらわれます。真にあるものはこの三つと涅槃だけです。以上は、もう少し考察が必要で間違っているかも知れませんが、今の段階の私の理解です。

  
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 ◎冥想の境地と、立ち位置の異い
 日頃の冥想について尋ねました。私は毎日お堂で一時間は坐る冥想をするのですが、坐った時は毎日こころが混濁しています。確かに一時間坐ればこころは落ち着き、感覚は感覚として、妄想は妄想として観察できるようになります。しかし、翌朝になればまた、同じようにこころは混濁しています。坐って昨日到達した静けさから始められれば良いのに、毎日坐った時はこころが混濁しています。これは何とかならないものでしょうか? この質問を問うて師の表情を見た瞬間に「しまった! 愚かなことを聞いてしまった」と思いました。師は苦笑いするかのように、そんなものでしょう…と、毎日お風呂に入って身体を洗います。昨日洗ったから今日は大丈夫ということもないようです。もちろん、こころが変わることもあるでしょうが…。
 もう一つの回答は、こころが混濁している時も、こころが落ち着いている時も、どっちもよしという見方です。私たちはこころの平安や幸福を求めて生きています。そして、葛藤や混乱より前者のほうがそれは楽で、それを好みます。しかし、アチャン・チャーも、ニャーナラトー師もこのことは、すでに冥想者の大切な理として仰っていました。
「ラーカータオカン」=平和も非平和もどちらも当価値、同じであるこという見方です。坐った直後にこころが混濁していても、それに気づけば前のめりになった身体をスッと元に戻して、正しい立ち位置に戻ることは可能です。その立ち位置に戻ることが、肝心要であり、その一見チョットしたこの「ふっと」自分に帰ることが決定的な異いです。
 冥想の境地を求めるのではなく、正しい立ち位置に帰ること、これこそが師の説かれる冥想の本質だと思い返すことができました。考えてみれば、冥想の境地とはそれがどんなに素晴らしくても、既知であり、自分の経験であり、過去のものです。しかし、師が説かれる「立ち位置」は、今ここにあり、あるがままであり、蓄積して経験できる質のものではありません。世界の異いなのだとあらためて理解しました。

  ◎実践冥想会を終えて
 ニャーナラトー師の指導による実践冥想会は初めての試みでした。一日言葉から離れる。テクニックからも離れる。ゆったりとした時間の中で師と仲間と共に過ごすことができました。師の冥想指導に関しては、言うことがありません。言葉の無い世界なので説明もできません。人生のわずかな時間であっても、言葉を使わずに師とこころをシンクロさせて呼吸することがニャーナラトー師の実践冥想会の醍醐味だと思います。
私は主催者の立場にあったので、考えることも多くその日はただ皆さんと一緒に流れていました。びっくりしたのは明くる朝の冥想でした。驚くほど穏やかな冥想でした。私が理解したのは、妄想が始まり前のめりになった身体に気づいたら、ふっと戻すこと。ただそれだけです。リアクションも無く、ただふっと戻す。その場所は決して求めている冥想の境地とはかけ離れた、関西弁で言うと「しょうもない」場所です。なんにもないのですから…。「しょうもない」は標準語で言うと「仕方ない」「どうしようもない」「為すすべもない」という意味かも知れません。つまり、”doing nothing”です。それは、釣り針のない釣りなので、「しょうもない」のでしょうか?

 冥想会の最後に師から講話がありました。せっかく冥想をしたのだから、この功徳を廻向しましょうということでした。なかなかピッタリの廻向文がなかったので、師に読んでもらいました。冥想会に限らず日頃冥想をしても、「あー今日の冥想は今一だった」とか、「今日の冥想はよかった」とか、私事にしてしまい、せっかくの冥想を自分の尺度で評価して台無しにしてしまうこともあるかも知れません。冥想に限らず、善行為をした時には、すかさずその場で廻向をして、その功徳を自分の域に留めることなく、すべての生きとし生けるものへの幸福を念じて廻向することが大切です。善行為を修したら即座にその場で廻向して、自分のものにしないことが仏教者の基本だと、あらためて思慮しました。
 
 後日作成した冥想会用の廻向文です。

 廻向文
この功徳を先人、先祖、恩師をはじめ、すべての生きとし生けるものに廻向いたします。
願わくは、この功徳によって、すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。
すべての生きとし生けるものが彼岸へと導かれますように。
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第七回初期仏教勉強会と冥想会 2018年4月              感想レポート No,2 吉水秀樹

      感想レポート No,2 吉水秀樹

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 Loka pāla dhamma 『世間・守護・法』ということで法話がはじまりました。一言でいうと、「悪いことをしない」です。以前はこの「悪いことをしない」がどれほど大切な道徳であるかなど知る由もありませんでした。私は道徳を「善いことをしなさい」という教えだと甚だしい勘違いをして、道徳は胡散臭いと思い込んでけっきょく不道徳な生き方をしていて罰が当たりました。
 世間守護法とは、イティヴッタカ『如是語経』に説かれている「慚愧」の教えのことです。日本では慚愧という言葉は、一般的に使われることがなくて、政治家などが公の場で人に向かって、失態を告白するときに使われます。しかし、初期仏教では人間と人間社会を理解するのに大変重要な言葉になっています。
 さて、この世の中は何によって、秩序が保たれているのでしょうか? この根本的な問いかけに対して、仏教以外の宗教では、「神によって秩序が保たれている」と説きます。
 お釈迦さまの答えは、『「慚」と「愧」この二つによって世間は秩序が保たれている』です。初期仏教での慚愧は、「慚hirîヒリ」と「愧ottappaオッタッパ」の二つの言葉からできています。
◎慚ヒリは「恥じること・恥じらい」
◎愧オッタッパは「怖れ」、こんなことしていてはダメだ、ヤバいという意味です。

 私は見たことがありませんが、テーラワーダ仏教寺院の建物の入口には、この慚と愧をモチーフにした壁画などが飾ってあるお寺もあるらしいです。日本流に言うと山門の仁王さん、ヒリ大明王とオッタッパ不動尊といったニュアンスなのでしょうか。それくらい人間道徳の基礎になっている重要なダンマなのです。
 細かいことは外して、私が学んだ根本的なことを報告します。
ともかく肝心なことは、「悪いことをしない」。では、誘惑に満ちたこの世で、どこで踏み止まればよいのか、わが身を振り返っても重大なことです。
 さて、道徳(五戒)などの戒めとの位置関係はどうなっているのでしょうか? 
 仏教に入門したら戒めを持ち道徳を持つことは大切ですが、どちらかと言えば表面的で大脳新皮質で考えることのようにも思います。しかし、慚愧の問題は、そういった道徳よりもっと深い、本能的な部分に作用しているように思います。道徳以前の問題なのです。ですから、仏教徒であるないに関係なく、買い物をする主婦であれ、不良少年であれ、戦場の兵士であれ、国を動かす権力を持った人であれ、すべての人間に作用している根本的な「世間守護法」のようです。
 慚愧のこころを持つことが、人間としての社会生活の基盤になっていると思います。人々から慚愧のこころが失われていくと、無慚で悲惨な世界があらわれてしまいます。
 なぜ、私たちの多くは他人の物を盗んだりせず、秩序を保って生きているのでしょうか? それは「自分の財産を守って、生き残る為」です。慚愧の背後に、「生きていたい」「死にたくない」この二つの根本的な衝動から、慚愧のこころが生まれていることが興味深いです。

 また、スマナサーラ長老によると、「慚hirîヒリ」(恥じらい)と「愧ottappaオッタッパ」(怖れ)は、同時には存在しないこと。何とお釈迦さまには、オッタッパ愧(怖れ)は無かったと、語られていることも興味深いです。お釈迦さまは「悪いことをする」ということ自体が無くなっていたので、(ヒリ慚が完璧に作用していた)オッタッパ愧(怖れ)は無かったということなのでしょうか。
 私は自分を観察したら、オッタッパの方が強く働いているようにも感じます。それは、ヒリが乏しく悪いことをしたいという衝動が常に作用していることのようにも感じました。
 万引きをしたいという衝動を持っている人は、「怖れ」が生じます。捕まったらヤバイということです。しかし、「与えられていないものを盗る」ことは恥ずかしいことで、そんな悪行為をしたいと思わない人には、オッタッパ恐怖は生まれません。
 スマナサーラ長老は、「精神の進化は慚愧から生まれる」と仰って、肉体の進化とは違って短い時間で達成できる、正精進すれば解脱できると説かれました。 

4月8日(日)第七回初期仏教勉強会、4月11日(水)実践冥想会  参加者の感想

4月8日(日)第七回初期仏教勉強会、4月11日(水)実践冥想会 
参加者の感想 ※感想は少々編集してあります。
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   冥想会+ S.A
 「先生」という呼び名から、説明したいと思います。ニャーナラトー先生はたぶん「長老」なのだと思います。「師」であり、「比丘」なのだと思います。あるいは仏典のように「尊者」と呼ぶべきなのかもしれません。でも僕はあえて、「先生」と呼びたい、先生に触れてそう思いました。それは先生が輝くべき経歴、長きにわたる厳しい修行の達成、異国の地での多様な経験ーをお持ちにもかかわらず、なんというかとてつもない「親しみやすさ」を持っているからです。まるで近所のおじさんが優しくアドバイスをくれるような、手習いの先生がそっと寄り添って指差しで教えてくれるような、そんな感じだったのです。これはスマナサーラ長老に初めてお会いした時の印象とは大いに違っていて面白かったです。長老はなんていうか「ロックンローラー」。ブレない孤高の人。
先生はやっぱり「先生」。親しみやすくて頼りになる先輩。それは瞑想指導にも現れていて、やっぱり長老の指導やメソッドはスパッと明快でやることがハッキリしている感じ。対して、先生のやり方はどこか(いい意味で)スキがあって、ゆるくて、おおらかな感じ。まるでタイの田舎に流れるのんびりした空気みたいな。まさに先生の瞑想は”Holiday of heart”でした。
あの一日、僕はのんびりと休暇を楽しむように瞑想ができました。この感覚って今までちょっとなかったです。いままでも瞑想するのは発見に満ちていて楽しいとは感じましたが、心を休ませるっていう感覚はなかった。力を抜くのもどちらかというと集中力を高めるっていう目的のためにやっていた感じがします。
「へえーこういう瞑想もありなんだ」と思うとなんだか心が楽になった気がします。また先生の言葉も心に残っています。
「クラァーイィ」(緩める)というやつ。あれから座る時はいつでも「くらぁーいぃ」と言っています。生活の中で体や心に力が入ってるなと感じる時にも使っています。使っています、と言いましたが、本当は自然と口から漏れ出てくる、そんな感じです。本当に、ぴったり張り付いたネジがゆるんでフワッとスペースが生まれるような、そんな効果がある言葉だと思います(五蘊の想saññaの段階で効果があるんでしたね?)。「手放す」と並んでお気に入りの言葉になりました。ありがとうございます。
 また法話会では世間守護法(lokapāla dhamma )としてのHiri(慚shame)とottappa(愧fear)の説明をしていただき、その役割や作用についてわかりやすく説明していただき、より慚愧に対して自覚的になれたような気がします。またヘイトスピーチなどの話題も出て、具体的にそういったいわゆる「悪」に出会った時に仏教者はどうすればいいのか、などの質問に答えていただき、大変為になりました。本当にありがとうございました。



   冥想会 T.N
 静かな村のお寺の本堂で、ニャーナラトー師のご指導の元、鳥の鳴き声や風の音を聞きながらの瞑想は贅沢な時間でした。歩く瞑想も、まるで先々月に東北タイの森林寺で托鉢に同行した時の様に、静かな山沿いや竹林沿いの坂道を、ニャーナラトー師の後を追って一歩一歩歩くことができ有難いです。
どんな恐ろしく大きな電車がやって来ても、駅のホームのベンチに座って、こころ穏やかに、緩やかな構えで、電車の通り過ぎるのを見届ける、いつかそんな平和な日が迎えられそうな瞑想会でした。
簡単な質問を紙に書きましたが、ニャーナラトー師に話を広げて答えて戴き有難いでした。法話のテーマ通り、心穏やかな、緩まった1日を過ごせました。ありがとうございます。

  冥想会  K.O
・「なにもしない」で居続けた1日は、心も身体も、自分というきつい枠組みも、いつの間にか解けて消えて行くような深い安穏の体験でした。
・歩く瞑想の時、草や木や花や虫や鳥たちと同じになって、自然の中に混ざっていく感覚がとても不思議で心地よかったです。
・一日中、ずっとニャーナラトー師の深い慈愛に守られ包まれているのを感じ、胸がいっぱいでした。感謝しかありませんでした。
・終わってからは、現実とのギャップに戸惑い、すぐには上手く戻れませんでしたが、日常の煩雑な所作でも歩く瞑想の時の感じで取り組めるような気がしています。
・今後も月に一度でもいいので、先日の様な丸一日の瞑想を実践したいと思いました。

  冥想会 T.Y
 瞑想はとにかくやるしかないのだろうなと思っています。師のお話ではっとしたのは、サンニャー(知識・記憶・名前)についても「緩める」ということでした。これは吉水さんがおっしゃっていた、何かを見て「ペットボトル!」と即座に反応して命名することが妄想と気づいて離れることだなと思ったのですが、今まではそれもよくわかっていなかったと思いました。心に浮かぶ想念はすべて、ありのままではない、思い込みなのですね。そこに気づいて、だいぶ楽になった気がします。

   冥想会 C.O
 ここしばらく慌ただしい毎日でしたので、久々にゆっくりと瞑想を楽しむ事が出来ました。歩く瞑想も、いつもお寺で歩くのより長く歩かれて、長く歩くのも良いなあと思いました。二周目あたりから心がより集中した状態にに入っていった様に思いますが、次第に目に映る風景が自分自身から立ち現れている様な感じで、目に映っている物、エネルギーが湧き上がってくるのを感じました。悲しさとはまた違うかんじの、慈悲と言うとおこがましいですが、強く静かなエネルギ―と思いました。でも、あまりそれを追わない様に、あえて集中に入らない様に、ニャラトー師が仰るくつろぐ感じで歩いていました。法話会の方で、ニャラトー師の第一声で「もうこれで十分」というような事をおっしゃっていましたが、私も全く同感です。お寺にいるだけで、完結しているというか、満たされている感があります。今回は、ご質問がえらく少ないとおっしゃっていましたが、皆さん同じように感じておられるのでしょうね。本当にご縁に感謝したいと思ます。

   冥想会 N.M
 沈黙でいることから始まり、座る瞑想、歩く瞑想、朝から夕方まで、本当に心静かな、素晴らしい時間でした。沈黙でいるということは、言葉がないのではなく、逆にもっと心豊かで、濃密である気がしました。言葉では表現できない次元の空間があり、普段は見過ごしている気づきがありました。その中で始まった瞑想は、心が穏やかになると同時にまた、何かにつながるような感覚で、自分の存在と他との境界線がなくなるような不思議な感覚でした。ニャーナラトー師のお話しにあった、駅のホームと通りすぎる電車の話は、わかり易かったです。気づいたことは、いままでは、瞑想の時に、電車が見えたら、ホームに来るなと止めてしまっていたことです。止めていただけなので、それは、隙を狙ってまたすぐにやってきます。今回、電車が駅を通り過ぎていくままに見送ることにしたら、それはもうやってこないことに気づいたのです。
電車が通りすぎて、また次の電車を見送って、を繰り返しているうちに、電車がぱたっと来なくなる時間があって、だんだん静になって行ったのです。心が穏やかになる実感をしました。
最後に話された大切なことが、まだなんとなくとしかわからないですが、物事にセットになっている既存の言葉や感覚、知識から少し距離をおいて、決めつけず、明確にしようとこだわらず、その間合いを大事にするということなのかなと自分では解釈しています。朝から夕方までの長時間、瞑想できるのは本当に贅沢な時間でした。ここまで瞑想すると、本当に心が落ち着いて、穏やかなのが実感できます。貴重な素晴らしい時間をありがとうございました。

   冥想会 S.K
 どなたかの質問で歩く瞑想の話(映画のスクリーン)がありましたが、私自身、昨日は、初めて「景色」すら何も感じる事なく、単なる「色」が目の前に広がってるだけという不思議な感覚になりました。後、当たり前の様に唱えている「回向偈」の意味の深さを教えていただき、毎日、自身が唱えているお経に、そんなつもりはなくても、あってはならない「慣れ」というものがあるという事を感じました。朝夕の本堂での勤行を日替わりで「和文」を取り入れていき、一つ一つのお経の意味の深さを味わいたいと思います。 合掌

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  勉強会  T.W
 今回が初参加で、前回までに出てきた専門用語が理解できるか不安でしたが、今回大変分かりやすく教えていただきましたので、とりあえず一つ「慚愧」という言葉は覚えられました。日々の行いの指針として覚えやすく、心に留めておくべき教えだと思いました。また、ニャーナラトー師の誠実なお人柄と笑顔により、リラックスして貴重な法話を聴けました。大変ありがとうございました。

   勉強会 N.M
 私は、他の参加者の皆さんのように、初期仏教について知識も智慧もまだ持ち合わせていませんが、ニャーナラトー師が平易な言葉で話してくださり、また、言葉の端々に暖かいお気持ちがにじみ、時に、目を閉じて吟味して言葉を選ばれているのが、印象的でした。私は、講話を聴かせていただくのは、2回目ですが、毎回、この上なく上質な癒しをいただけたような安らかな気持ちになります。

  勉強会 T.N
 ニャーナラトー師のいつも優しいお人柄の法話を通して、アマラワティー僧院のアジャンチャーの説くダンマの教えを、京都で聴かせて戴くのは有難い機会と考えています。ダンマの教えが、じわじわと身に着くようです。質問の時間がたくさんあって、その後に個人的に質問する機会も持てるのも有難いでした。いつか、ヒリ オッタパの壁画のあるアマラワティー僧院まで出向いて、短期間でも瞑想修行に参加してみたいと思いました。

   勉強会 T.A
 冒頭に、ニャーナラトー師の関西弁の「もう、これでええやん。」ということに対して感じたことは、吉水さんはじめ、お寺を支え協力される方々の準備、行い、それらによって、この会のそれ相応の結果は自然と現れているのだと思います。私はまずは、そのことに感謝、隋喜致します。
今回のお話の中心は、ottappa 慚(恐れを感じる)hiri 愧(恥を感じる)これらの法で世の中は守られている、dhammapāla(世間守護法)とのことです。
大胆な例でいくと、駅のホームで、おとなしく黄色や白線の前で待っていられることや(恐れ)、それなりの規律で、人が順番通りに並んでいること(恥)、朝からパチンコ屋の前で並んでいるような人もその働きは機能していると思います。物事の法則、決まりを常識的なレベルで守ることで、その人の幸福は守られる。それは渇愛(生存欲、恐怖感)が道徳的に進化したバージョンのようにも見えます。
※渇愛:存在欲、非存在欲、欲愛 こういったことをお釈迦様が説かれるのは世間で幸福に生きることもそうですが、心を成長させ、完成することにこれらは必要な要素なのだと感じました。今回の法話では、自己観察的に、これをしたら恥ずかしいことだなあ、という風に見て、心に空間、スペースを持ってみましょう、そういった時に、一旦停止して踏み留まってみましょう、というようなことを師は仰っていたと思います。
私としてはその空間に、そのようにただ見る日常生活の実践の中に、落ち着きがあり、今ここに気づく隙間ができると思いました。これは知識レベルの話ですが、(kusala、akusala)に関してですが、ニャーナラトー師は善悪という訳について、多少の違和感があったようです。水野先生パーリ語辞書によると、巧みな、善巧という訳があるので、個人的には(巧み、巧みではない)、(上手、下手)というような訳とかでも良いようにも感じました。
釣り針のない釣りの例えについて我々は六処から入ってくるデータに引っかかります。行為の習慣性、自分自身の思考パターン、こうであるべきという先入観、そのようなポテンシャルがあります。感覚器官に触れて、感じることが縁となって、そのポテンシャルが衝動的に結果を出すことになる。妄想、雑念が起きること、そこに、根を張っているのは執着であり、瞑想実践で”釣り針のない”ということは、執着の機能を一旦停止させることにあると思います。釣り針があると、欲の対象、怒りの対象に引っかかります。この例えは釣り針なので、対象は魚などなのでしょう。瞑想実践で感じたことを快であれ、不快であれ、そのどちらでもないものであれ、あれやこれやと考えること、評価したがる、この瞑想方法で良いのだろうか等、妄想、思考することは、因縁がきちんと法則通りに従って働いているということになるのだと思います。釣り針で釣れてくるのはすべて苦しみしか釣れてこず、釣り針自身もただの現象で滝で流れ落ちてできる水の泡のごとく瞬時に現れて消えちゃうものだよと、見たとき、引っかかりは成り立つものなのでしょうか?という感じで私自身は理解しております。
私としては、吉水さんに対して答える形ですが、メールがハッキングされようとも、例え知らない人に読まれたとしても、hiriの精神で、何かしら内容をツッコまれたとしても、それはかえって私自身のネタの肥やしと勉強になります。パソコンのキーボードを叩きつつ、自分の今できることに集中すること、上手(kusala)にしてやろうということには、それはhiriが支えとなっております。そういったポイントが勉強になりました。これからの法話のテーマや内容のネタに役に立って頂ければ幸いです。
sabbe sattā bhavantu sukhitattā 生きとし生けるものが幸せでありますように。

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