2018/04/23
第七回初期仏教勉強会と冥想会 二〇一八年四月 感想レポート No,3 質疑応答編
感想レポート No,3 質疑応答編 吉水秀樹★質疑応答より
◎“doing nothing”は逃げることではない
ヘイトスピーチはじめ、悪意ある行為や、この世では目に余る言動に出くわす場合もあります。そのようなときには、何か行動を起こすべきなのか? といったテーマの質問がありました。そのテーマから発展して、私は自分の経験からそのような場合でも、けっきょく”doing nothing”「なにもしない」ことが最善の得策だと思い、そのことについてニャーナラトー師に尋ねました。師はまったく同意されて、そのような場合でも最初にdoing nothingという姿勢をとることは、こころに最大限のスペースを持ち、悩み苦しみ憤りを受け入れことであり、「正しい」あるいわ「間違っている」という、相対性から離れ一切の制限を離れた問題解決に繋がる道であるだろうと説かれました。「なにもしない」ことは、逃げることではなく、具体的な問題解決の場面でも最も有効でポジティブな姿勢だと思いました。
◎子育て親子関係での悩みについて
この世には親子関係の悩みを抱えている人も少なくありません。お母さんが子どものことで悩んでおられる事例がありました。具体的な解決策の話ではありませんが、私たちは冥想することと、そのような現実の悩みとの関係を師の言葉から学ぶことができました。上手く言えませんが、「あるべき姿」や「理想」から離れる時間は大切で、坐ることでそれらから離れる。すべてから離れる。感情が出てきても、そのままにして離れる。それ以上に患部をいじらないで、離れて自分への慈しみのようなこころもちで見守る。
師はしばし沈黙されて「だいじょうぶだ…」問題はあるのだけど、「だいじょうぶだ」と全部をひっくるめて、「あるがままでよしと見る」… ここでも”doing nothing”に秘められた慈悲の力を感じました。
◎なぜ人は、何もしないではいられないのか?
いろいろな問題を抱えていても、問題が無くても、人はじっとしていられません。冥想でこころの静けさを得ても、なお何かをしようとします。冥想実践者なら誰もが突き当たる問題ですが、冥想で普段よりこころが穏やかになり、事象の変化を観察できるようになっても、気づいたら「何かをしています」”doing nothing”とこころに念じても、そのdoing nothingをしようとします。この、「何にもしない」ことをしようとする衝動は何でしょうか?
そもそも渇愛taṇhā とは「欲しがること」です。私たちのこころの中にはいつでも「欲しい」「欲しい」という欲しがるエネルギーがあります。このエネルギーには終わりがありません。冥想でこころの静寂を得たとしても、次に何かが「欲しくなる」わけです。
上手く言えませんが、”doing nothing”に近づくことは、「死」にも近いです。そこで、こころは死にたくないので、次の対象を探し生き残ろうとします。慌てずに、そういうものだと、観察するより他に道はないのかも知れません。これは「有」に対する執着だと言われています。
※三種類の渇愛
☆愛欲 カーマタンハー kâmataṇhâ
物を欲しがる、五感に刺激が欲しい。食べたい、遊びたい学びたい
★有愛 バワタンハー bhavataṇhâ 生きていたい、死にたくない
☆無有愛 ヴィバワタンハー vibhavataṇhâ 嫌いなものを排除、破壊したい
◎現象の生起を観察する
質疑の流れから、私が一時間ほど坐る冥想をした後、静かに眼を開けると即座にイスとかペットボトルという、分別妄想の命名が始まり、渇愛のエネルギーでこころの回転が衝動的にはじまるのかなぁ…という意味のことを発言しました。そのとき師は、それは因縁の生起を観察しているのではないですか? という意味の言葉をかけて下さいました。私はなるほどと思いました。私は因果法則で自然に起こることまで、否定してしまう傾向にあると気づきました。現象の生起を観察できたら、次の瞬間にそれが自分の分別妄想であることに気づき、消滅の観察が起きて、それで輪廻の鎖が解かれるのだなと思いました。
◎真にあるもの
アビダンマの解説書に「真にあるものは」四つである、その四つとは。
☆rūpa =色 物質
☆citta =心 こころ
☆cetasika=心所 こころに溶けたもの
★nibbāna =涅槃。―であるとあります。私はこのことは世界のことで、一方人間を仏教的に言えば、五蘊=色受想行識であり、五蘊とは、
☆色=rūpa 物質・体
☆受=vedanā 感覚
☆想=saññā 知識・記憶・概念
☆行=saṇkhāra 感情・~したい
☆識=viññāna 知ること・考えること・思考。―であると考えていました。しかし、これは間違っていました。涅槃は外して考えますが、この二つは分け方が違うだけで、同じものを言っているのだと理解できました。つまり、私=世界=私の経験です。世界とは私のことで、私とは世界のことです。「色」「心」「心所」と、五蘊の色受想行識はどちらも世界のことのようです。
色 = 色 声 香 味 触 法 = 色
+
心 = 眼 耳 鼻 舌 身 意 → 識
↓
心所 = 眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識 → 受想行
対象である「色」と、六根の眼耳鼻舌身意=「識」とがぶつかって、「心所」が生まれて、はじめて世界があらわれます。真にあるものはこの三つと涅槃だけです。以上は、もう少し考察が必要で間違っているかも知れませんが、今の段階の私の理解です。
◎冥想の境地と、立ち位置の異い
日頃の冥想について尋ねました。私は毎日お堂で一時間は坐る冥想をするのですが、坐った時は毎日こころが混濁しています。確かに一時間坐ればこころは落ち着き、感覚は感覚として、妄想は妄想として観察できるようになります。しかし、翌朝になればまた、同じようにこころは混濁しています。坐って昨日到達した静けさから始められれば良いのに、毎日坐った時はこころが混濁しています。これは何とかならないものでしょうか? この質問を問うて師の表情を見た瞬間に「しまった! 愚かなことを聞いてしまった」と思いました。師は苦笑いするかのように、そんなものでしょう…と、毎日お風呂に入って身体を洗います。昨日洗ったから今日は大丈夫ということもないようです。もちろん、こころが変わることもあるでしょうが…。
もう一つの回答は、こころが混濁している時も、こころが落ち着いている時も、どっちもよしという見方です。私たちはこころの平安や幸福を求めて生きています。そして、葛藤や混乱より前者のほうがそれは楽で、それを好みます。しかし、アチャン・チャーも、ニャーナラトー師もこのことは、すでに冥想者の大切な理として仰っていました。
「ラーカータオカン」=平和も非平和もどちらも当価値、同じであるこという見方です。坐った直後にこころが混濁していても、それに気づけば前のめりになった身体をスッと元に戻して、正しい立ち位置に戻ることは可能です。その立ち位置に戻ることが、肝心要であり、その一見チョットしたこの「ふっと」自分に帰ることが決定的な異いです。
冥想の境地を求めるのではなく、正しい立ち位置に帰ること、これこそが師の説かれる冥想の本質だと思い返すことができました。考えてみれば、冥想の境地とはそれがどんなに素晴らしくても、既知であり、自分の経験であり、過去のものです。しかし、師が説かれる「立ち位置」は、今ここにあり、あるがままであり、蓄積して経験できる質のものではありません。世界の異いなのだとあらためて理解しました。
◎実践冥想会を終えて
ニャーナラトー師の指導による実践冥想会は初めての試みでした。一日言葉から離れる。テクニックからも離れる。ゆったりとした時間の中で師と仲間と共に過ごすことができました。師の冥想指導に関しては、言うことがありません。言葉の無い世界なので説明もできません。人生のわずかな時間であっても、言葉を使わずに師とこころをシンクロさせて呼吸することがニャーナラトー師の実践冥想会の醍醐味だと思います。
私は主催者の立場にあったので、考えることも多くその日はただ皆さんと一緒に流れていました。びっくりしたのは明くる朝の冥想でした。驚くほど穏やかな冥想でした。私が理解したのは、妄想が始まり前のめりになった身体に気づいたら、ふっと戻すこと。ただそれだけです。リアクションも無く、ただふっと戻す。その場所は決して求めている冥想の境地とはかけ離れた、関西弁で言うと「しょうもない」場所です。なんにもないのですから…。「しょうもない」は標準語で言うと「仕方ない」「どうしようもない」「為すすべもない」という意味かも知れません。つまり、”doing nothing”です。それは、釣り針のない釣りなので、「しょうもない」のでしょうか?
冥想会の最後に師から講話がありました。せっかく冥想をしたのだから、この功徳を廻向しましょうということでした。なかなかピッタリの廻向文がなかったので、師に読んでもらいました。冥想会に限らず日頃冥想をしても、「あー今日の冥想は今一だった」とか、「今日の冥想はよかった」とか、私事にしてしまい、せっかくの冥想を自分の尺度で評価して台無しにしてしまうこともあるかも知れません。冥想に限らず、善行為をした時には、すかさずその場で廻向をして、その功徳を自分の域に留めることなく、すべての生きとし生けるものへの幸福を念じて廻向することが大切です。善行為を修したら即座にその場で廻向して、自分のものにしないことが仏教者の基本だと、あらためて思慮しました。
後日作成した冥想会用の廻向文です。
廻向文
この功徳を先人、先祖、恩師をはじめ、すべての生きとし生けるものに廻向いたします。
願わくは、この功徳によって、すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。
すべての生きとし生けるものが彼岸へと導かれますように。