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ダンマサークル 黄檗道場 2018年2月17日 参加して 吉水秀樹



『思考妄想を事実として念じていたら、一生かけても真実に至ることはありません。』

 たまたま話の流れで、私がヴィパッサナー冥想の本質は「感覚で終わらせること」で、それは「音音音」と実況中継し、「カラスカラスカラス 車車車」と命名することではないという意味の発言をしました。そしたら、参加者の一人が『「カラスカラスカラス」でもいいじゃないか、それは事実なんだから…』といった発言がありました。私は、それはよくないなぁと思ったがその場では何も言いませんでした。説明が長くなったり、主題から外れては不味いと思ったからです。

 冥想中に音が聞こえても「カラスカラスカラス」と実況中継していたら、多分思考の世界からは一歩も出られないと思います。それは事実ではないからです。俗世間ではカラスの声が聞こえたら、「カラスが鳴いている」として、それは事実としていると思います。同じように車が道路を走る音が聞こえたら「車が走っている」ということが事実になっています。
 これらは世俗諦であって、聞いたこと、見たこと、考えたことも全部事実として認識しています。シリア軍が空爆して子供たちが死んだと報道があれば、それは事実として認識されます。しかし、私が聞いてそう思った以外に何の根拠もない場合がほとんどです。ヴィパッサナー冥想では、このような思考はすべて妄想と位置づけられます。これらに対して今ここで、明確に確認できることだけを観察するのが、ヴィパッサナー冥想の本質です。

 もし、思考妄想を事実として念じていたら、一生かけても真実に至ることはありません。

 仮に本当にカラスがいて「カー!」と鳴いたのだとしても、私がその場で聞いたのはただの「カー!」であり、それは音です。その音を聞いて、過去の記憶と知識から「カラス」という想念が生まれ、「カラスが鳴いている」という思考が生じます。そうして、自分が考えたことと事実を混線させて、思考を事実としていたら、何時までたっても、思考の世界から出ることがなく、気づきの冥想にはなりません。
 今ここに住して、嘘なく観察できるようになれば、感覚で終わらせることの意味がわかるようになると思います。想念は想念として放っておいて、今ここに住すれば「音」以外は何もありません。「音」以外は「私は知りません」というのが真実です。「知っている」ことはすへて、過去であり知識です。何かを知ったとすれば、それは既知の何か、過去の何かです。
 命名や名称は便利な道具ですが、このような過去を含んでいるので厄介です。冥想では、五蘊の動きがあるのは当然です。それらに価値づけせずに、ただ淡々と観察できるようになれば、想念はただの想念で、感情はただの感情、思考認識はただの思考認識として、生じては消えてゆきます。そうすると、始まりが「感覚」で、「感覚で終わらせる」の意味が体得できると思います。すべて、放っておくことが基本で、放っておくと、感覚だけが観察されるようになると思います。それが「楽」sukha(幸福・安楽)だと思います。
 世俗諦と勝義諦が混線している人には、難解なテーマだと思います。

追伸 
今朝本堂の北側の六畳の方丈で冥想をしました。寒かったのでエアコンを25℃の静音に設定して坐りました。お堂と違って、外の音はジャット機の音か大型ダンプのクラクション以外は聞こえません。エアコンの音だけが聞こえていました。冥想を始める段階では、「エアコンの音がしている」というのは事実と言えます。しかし、一旦眼を閉じて坐ったら、「音」だけがあります。エアコンの音というのは、記憶であり過去です。一時間ほど坐りました。その時に音を聞いてみたら、それはもはや「エアコンの音」ではありませんでした。

 こころが静まって、明確に感覚を観察するようになると…。室外機の音、ファンの回転音、パネルに風が当たる音、少なくとも三つの音が重なって、「エアコンの音」としていたことに気づきました。
 明確に見るようになると、「エアコンの音」という名称観念ではなくて、幾つかの縁起が複合して、「音」が現れては消えていることが見えます。そして、その細かい見解のどれもが、事実ではなく私の思考です。どんなに細かく観察しても見解はやはり、見解であって、真実ではありません。「音」という、エネルギー・波動を感じていることは事実だと思いました。


カラス
カラス2
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冥想と空間 Ⅱ

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 ★絶対空間はあるのか? 
 自分で考えてみてください。私たち人間は基本的に絶対空間があると考えて生きています。毎日同じ住所に帰って来て寝るその場所は絶対にあると思っています。確かに地球上の日本の家屋の位置は毎日変わったりしません。しかし、これは地球という惑星の特殊な重力場で起きている希なできごとです。本当は私たちが今いるこの場所はたった1秒間に、地球の自転で約500m、公転で約27㎞の移動をしています。ジェットコースターの中に家を建てているような状態なのですが、このような実感は全くありません。認識できないからです。しかも、アインシュタインの発見以後になって、その宇宙空間の時空、時間も空間も歪んでいることが証明されています。
 最もブッダは2500年も前に、「無常」を観察して既にこのような事実を了知しておられたようです。つまり、空間はあったとしてもそれは変化しているもので、固定してあると見ている私たちの見ている世界は幻覚なのです。つくられたものです。
“sabbe saṅkhārā aniccā” 「すべての認識できるものは変化している」
とはそのような意味で、空間が幻覚であるという意味が含まれています。

 私たちの思考の世界ははじめから幻想でつくられています。人間の幾何学の世界では、点や直線を認めています。1+1=2も認めています。
点は面積がないのですが「・」認識する点には面積があります。点と点を結ぶ線を直線と呼んで、「 ―― 」にも面積がないのですが認識している限り面積があります。そもそも時空が歪んでいるので直線は存在しません。「1+1」と「2」は見ただけで違うのに同じと認識します。つまり、私たちが世界と呼んでいるものは、人間の妄想で組み立てている世界です。

“sabbe dhammā anattā”「すべての認識対象には実体がない」
とブッダが語っているのはそのことです。

 ヴィパッサナー冥想では、思考を離れてこれらの真相を観察します。過去の記憶や、時間や思考を捨てることが、ヴィパッサナー冥想での思考の要らない直観です。
 まず、見ている世界、空間を疑って見てください。

 ところで、私は何時もベランダで洗濯物を干します。そのベランダの空間を認識しているのですが、昨日冥想でそのベランダの空間を思い出したとき、物干しの竿が何本あるのかわかりませんでした。毎日見ていて、さっき干したのにわかりません。また、その竿がどのように天井から吊るされているのか全く記憶にありませんでした。見ている世界が幻想なのは本当です。世界が無いのではなく、私が勝手に作った世界を見ているだけです。

 アビダンマでは、実際に実在するものは、「こころ・心所・色(エネルギー)・涅槃」の四つだと説かれています。まだ、私にわからない世界ですが検べてみたいです。

銀河

冥想と空間

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 ★当たり前にとしているものに疑問をもつ
 日頃、当たり前として感じている空間について疑念が生まれて、空間について考察しました。
 まず、物理的な空間はあります。今朝お堂で、三人で冥想していました。私の左に一人、右に一人が坐っています。このような空間は物理的な空間として一応あるとします。問題は心理的な空間です。簡単に言うと、眼を閉じた時に空間はどうなっているのか? という問いかけです。そんなものあるに決まっていると考える人には理解できないと思います。
 眼を閉じて、手の感覚を感じたときに、左手、右手と感じて左右の距離を感じ、空間が現れます。さて、これは妄想なのか実相なのか? 最初は検べ方がわかりませんでした。何か他の思考が始まったとき、例えば「昼ご飯は何にしようか?」と、この瞬間は思考の世界にいるので空間はありません。このことを理解できる人は少ないかも知れません。認識しない限り、認識の対象が現れないのは、本当は当たり前のことです。眼を閉じたら少なくとも私の前に居るであろう人は認識できません。記憶として「私の前に人がいる」という思考は生じても、それは少し前の過去の記憶で、実相ではありません。

 ★音を聞いた瞬間に空間が生まれる(対象に触れて感覚が現れた瞬間)
 冥想中に灯油販売の車が「たき火歌」の音楽を鳴らして移動していました。寺の直ぐ下の道を通過して、音源が移動している様子を感じました。このとき、空間が現れます。私はなくて、音がダイナミックに移動しています。お腹の膨らみを観察していたら、膨らみの動きの感覚位置が前後にゆっくり移動しています。このとき、空間が現れます。空間が現れたときに私はありません。暖かい手袋をはめて冥想をしていました。最初手袋が存在していると思っていました。一時間冥想をして、身体がピタリとも動かなくなったとき、手袋は見つかりませんでした。手の感覚はあるのですが、手が微動もしないので手袋に触れる感覚がありません。このとき手袋は見つかりませんでした。(手袋があるというのは妄想思考です)

 ★日常の空間は妄想であった
「音」(sound)がとても大切です。耳を傾けるとは、人の話を聞くのではなく、言葉の音を聞くことです。そのときはじめて、音は空間を持っていて、音を聞くためには空間がなければなりません。言われていることを何時も自分の偏見や快不快の条件づけられた思考習慣で翻訳しながら聞いているなら、そのときその人はまったく耳を傾けてはいません。実はそのとき空間も無いのです。日常の空間が幻です。手を切ったりぶつかったりするのはその現れです。日常は明確に見たり聞いたりせずに、「あったはずという妄想の空間」で暮らしているのが真相のようです。冥想で直観した私のない(言葉のない)世界が実相空間だと言えます。
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