『冥想の秘訣』 ―Flowering フラワリング―

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 ブッダの気づきの冥想では、気づく・ありのまま見る・観察する・実況中継する・ラベリングする・感覚を感じる…などの実践内容を現す言葉があり。冥想実践者が「実況中継をするしない」などと、迷うことが時々あります。私はこれらの言葉は、けっきょく全部同じ内容だと考えています。
 パーリ語に”passati” パッサティという動詞があり、「見ること」です。”vi”ヴィという接頭語は、「ありのまま・明瞭に・客観的に」という意味です。「ヴィパッサナー冥想」とは、「ありのままに見る冥想」と理解できます。

 さらに、知識が増えてややこしいかも知れませんが、私は ”Flowering”「フラワリング」という言葉が好きです。ある聖者の言葉です。日本語で言うと「開花」でしょう。
 冥想中にどんな感覚や感情が現れても、それらに価値を入れたり、評価しないで、ただ観察することは冥想の基本です。しかし、ネガティブな感情、怒りや欲望、嫉妬などの感情に気づくと、それらを悪いものとしてマイナスの価値を入れる習慣は中々払しょくし難いものです。(ポジティブ反応・反対も)結果それは火に油を注ぐことになります。消えるどころか増殖します。気づいていないかも知れませんが、この時すでに二項対立の世界が始まっています。ネガティブ・ポジティブと、思考によって二項に分けたのは誰でしょうか?

 そのような自分の思考ループに少しでも気づいた人は、フラワリングという言葉を理解すると役立つと私は思います。フラワリングはどんな小さな感情も、嫌な感情も尊重することです。それがありのままの自分であると認めることです。そうすると、どんな感情も自然に花が咲いて枯れて散って行くように消えていきます。感情に何かしらの価値入れ、評価を下すと、枯れない造花のように痕跡を残してしまいます。しかし、なんら自分から手を加えないと、どんな感情も自然法則に縁って開花して、枯れて消えて行きます。私がすることは、ただブッダのまなざしで優しく、それらを見るだけです。自然界の植物が成長し、やがて花を咲かせ、そうして、因果法則で自然に枯れて行くさまを、表現した素敵な言葉だと思います。
 
※今朝、冥想して思ったのですが、感情は自分で意識的につくった炎なので、枯れて消えていくのには時間が必要です。この時間とは智慧と勇気かも知れません。

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ヴィパッサナー冥想 ―自己知―


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 新しい言葉を憶えても仕方ありませんが、ヴィパッサナー冥想の本質が「自己知」です。もしあらゆる文化も宗教もない世界に生まれて、一から自分独りで真理を発見することに努めるなら、人は自分を知ること、自己知から始めなければなりません。自己知とは、自分の思考のプロセスを観察することです。ヴィパッサナー冥想で、今ここで過去の知識や記憶に依らないで、明確に観察するとはそのことです。思考は必要ありません。必要なのは「ありのままに見ること」「観察」「嘘の無い謙虚さ」です。それをヴィパッサナーと呼んでいます。
 自己知がないと、多くの人が普通にしているように対象に触れた経験が思考を生み錯覚や妄想が必然的に起こります。自己知があると経験しても、感情などの残留物を残さずこころが汚れることがありません。自己知とは、自分がどのように人に接しているのか? どのように人を見ているのか? 何故動こうとするのか? などを一瞬ごとに明確に観察することです。
この冥想を続けていると、私が「運動」であることが発見されます。「私」という固定した物があるのではなく、私は運動です。その運動を観察します。何に触れても起こるのは運動です。その運動こそが自分の正体です。人の言葉を聞いて腹が立って不愉快になったら、「怒り」という運動が私です。それ以外には何もありません。対象に触れて慈しみのこころがあらわれて、こころが豊かになったらそれが私です。そのときもそれ以外は何もありません。
 自分を知るための手段はありません。冥想に方法は無いのです。手段を求めることが、何かの結果を得たいという運動です。多くの人がそれを待ち望んでいます。冥想の名において権威に服従していませんか? 自分に何かしらの結果を与えてくれる、聖者や導師の金魚の糞のように振る舞う人になってはいけません。私が長老を敬礼するのはそれを私に常に教えてくださるからです。人は基本的に自己知には関心がありません。多くの人が関心があるのは、結果を与えてくれる方法であり権威です。
 自分自身を知る、自己知がないかぎり、あなたが何をしても冥想にはなりません。自己知とは一瞬一瞬の自分という精神の運動を知ることです。禅定を得ることや真我を悟ることではありません。
自己知がなければ、冥想と実生活の乖離が起こり、現実逃避にすら発展します。自己知を妨げているものは、自分が大切に育て上げてきた思考習慣であり、対象に触れて意識的・無意識的に起こる条件づけされた運動です。しかし、安心してその運動を観察することでその運動(私)から自由になることが可能です。何も求めていないときにそれは起こります。

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