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パーリ語勉強会 2017年12月22日(金)黄檗道場

ドータカ

スッタニパータ第五章【彼岸に至る道】 六『ドータカ学徒の問い』

『ドータカ学徒の問い』は、わずか八偈の経です。ドータカの「もろもろの疑惑から解き放ってください」という熱情のある問いに対して、ブッダが答えます。
ブッダの返答の中核は、1064偈だと思います。正田先生の訳で考察します。

 1064.(1071)
〔世尊は答えた〕「わたしは、〔あなたを、諸々の疑惑から〕解き放つことはできません。ドータカさん、誰であれ世における疑惑ある者を、〔諸々の疑惑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕認知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」〔と〕。

 ブッダがドータカの「疑惑・懐疑・葛藤…、この世のすべての疑惑から自身を解き放つにはどうしたらよいのか」という、切実な質問に対して答えます。
 ブッダの返答の最初の一言は、「わたしはあなたを解き放つことはできません」です。みなさもこの言葉をブッダの言葉として、目を覚まして読んで下さい。「誰であれ、疑惑ある者を解き放つことはできない」とブッダは語っています。

 もし、私が人から、そのように頼まれたとしても、最初に人の疑惑を解き放つことはできないと理解するべきです。

 次のブッダの言葉は、他の先生の訳では誤訳に思います。真理の捉え方が甘いからです。正田先生の訳では要約すると、
「真理を常に今ここで、気づくことで、あなたはあなた自身で、この暴流を超えなさい」となります。他の先生の訳だと「真理という実体があって、それを覚って解脱しなさい」というようなニュアンスになってしまいます。
 短い経ですが、とっても大切な真実が語られています。

“ Nāhaṃ   sahissāmi     pamocanāya,
ない・私は  得(ない)   解脱させ

kathaṃkathiṃ  dhotaka   kañci   loke;
疑惑を  ドーカタよ  いかなる 世間における

Dhammañca   seṭṭhaṃ   abhijānamāno,
真理を・しかし 最上の  了知するならば

evaṃ  tuvaṃ  oghamimaṃ   taresi ”.
このように あなたは 激流を 渡るだろう
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ダンマサークル 京都黄檗道場勉強会 参加しての考察Ⅱ 2017年12月16日 吉水秀樹



『悪しき見解の経』より 2.2.12(49) 小部経典 イティヴッタカ
「彼らが、有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、さらには、有るところのものの超越を〔実践し成就して〕、生存にたいする渇愛〔の思い〕の完全なる滅尽あることから、有るところのとおりに解脱するなら――
 彼は、まさに、有るところのものを遍知した者であり、彼は、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者であり、有るところのものの非生存あることから、〔その〕比丘は、さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)」と。

 さて、この偈は難解です。論理的に考えて整理するにも限界があります。中心のテーマは「ある」という思考、「ある」とその対極にある「ない」を超えること。「私」を超えること。日常の暮らしにおいて、「対象と私」の分裂を超えること。「分別」を超えることだと思います。
 話し合いをしている部屋には、正田さん、関さん、坂尾さん、吉田さん、安藤さん、容子さん、小屋松さん、私の8人がいました。この認識が「ある」です。確かに私たちの日常の観点では、「8人の人がある」ということが事実となっています。しかし、この「ある」が大問題です。「ある」は、事実とは言えないのです。
冥想では「ある」はありません。それは感覚vedanāと想念saṇṇaで、あらわれては消えるものです。私は何らかの感覚的刺激を受けて、「ある」としています。上記の名称は対象に属するものではなくて、私の記憶に違いありません。一人ひとりのデータ、宝石屋さん、鉄工業、翻訳家、パーリ語の先生…、などはすべて私の内部にあります。本当は彼らが山の洞穴に住んでいても私知りません。私の知っている世界は私の内部にあります。

「有るところの観点から、あるがままに見る」とはそのような意味だと私は考えています。
そして、その「観点を超越する」とは、私に起きている縁起の流れをありのままに観察して、それを「私はそのように見ている」「それは私の思考であり、妄想である」と、気づくことだと思います。
 そのように気づいても、8人が消えるわけではありません。相変わらず8人が見えます。しかし、これは私が作ったものであり、そもそも「私」も作られたものです。このように観察できれば、怒りは起こりません。欲が生まれないからです。「ある」と「ない」を超えたところが、「あるがまま」のようです。
 「悪しき見解」とは、悪い見解もあるという意味ではなくて、凡夫である私たちの見解は誤見であるという意味だと思います。
 
 さて、写真を見てください。果物がありますか? それとも…縁起が見えますか?

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ダンマサークル 京都黄檗道場勉強会 参加しての考察               2017年12月16日 吉水秀樹



《 冥想で体得する スカsukhaと ピーティpīti 
 【安楽と喜び】について 》

『もろもろの苦しみ(dukkha)の止滅、形成(sankhāra)の止滅は、安楽である』という、イティヴッタカにある言葉から面白い話し合いになりました。冥想実践で体得する、幸福や喜びについてです。以下は私の勝手な考察です。

 仏教の道を歩み出して体験する、幸福や喜びは世俗のそれとは確かに違います。まず、何もないところ、今ここに「喜び」があらわれます。冬のこの時期なら、背中に日差しを感じて「喜び」が生まれます。ブランケットに触れている温かな感覚から「喜び」が生まれます。求めたわけでは無く、喜悦感の追求もないので、害のない純粋な喜びで、あらわれては消えて行きます。この「喜び」を私はピティと呼んでいます。言葉の響きもピッタリしています。

 さて、そこで苦しみdukkhaの反対と言われている、sukhaスカ=幸福・安楽とはどんな感じなのかと話し合いが進みました。最初に俗世間で言われている幸福とは、なんども話してきた幸福感のことです。欲しいものが手に入った幸福感や、結婚式のパーティで浮かれて酔っているいるような幸福感のことです。ブッダの説く幸福は、幸福感ではありませんのん。

家に帰ってからいろいろ調べていました。そうして、鈴木一生さんとスマナサーラ長老の共著から次のようにスカを整理しました。

★アティ スカ atthi sukha
「正しく得た財があることを楽しむ」

 世の中には財に恵まれて、豊かな物財があるのにそれを楽しむことを知らないことが如何に多いことか。有り余る物財に囲まれても、なお「あれがない、これがない、あれが欲しい、これが欲しい」としている人は幸福ではありません。「私には、すべてものは揃っている」と思った瞬間に幸福はここにあります。私もこのように宣言できます。
 
 ★ボーガ スカ bhoga sukha 
「正しく得た財を使って楽しむ」

 すべて必要なものが揃っているのに、使わない、使おうとしない人が多いのです。お金を持っているのに使わない、「今使ったら老後が心配だ・何時お金が要るかわからない」と、いつも心配ばかりして、使って楽しむことを知らない人が多いのでしょう。
 子宝に恵まれたら、子どと遊ぶことは楽しいことなのに、遊ぼうしない。自分も一緒に楽しもうとしないで、「ああしろ、こうしろ」と命令ばかりして、あるしは仕事ばかりにかまけて、そうして、子どもや伴侶からも嫌われてしまう。今あるものをあるがままに十分楽しむことが二番目のスカです。
 私は、豊かな物財に恵まれてそれを使って楽しんでいます。本堂という贅沢な冥想道場があって、毎日冥想に励んでいます。毎月多くの人が訪れて、冥想し仏教の学びの場として使って楽しんでいます。車やスクーターお金も、あるものを大いに使って、人生を楽しんでいます。これがボーガスカということでしょうか。

★アナナ スカ anaṇa sukha
「私には借りがない、後悔もない」

 人に対して借りがない、借りがないということは自由だということです。銀行からお金を借りてその返済のことが何時も気になっていたら、人生が楽しめなくなります。年老いた親がいて、親の世話や十分な親孝行ができないで日々の雑務に追われています。そこに親の訃報が飛び込んできて、「親に恩返しができなかった」と後悔する。
「私は成すべきことはしっかりやった、もう借りはない」と楽で爽やか感覚が三番目のスカです。

 ★アナワジャ スカ anavajja sukha
「私の人生で間違ったことをしていない」

 三番目のスカと少し重なりますが、ここでは人生の究極において、間違いがなく、後悔や憂いがないことを言っているようです。
 人生の終局において、「~しておけばよかった」と考えることは暗い思考です。そのようなこころでこの世を終えたら、そのような暗いこころの生命に生まれてしまいます。
 毎日眠る前に、「今日はよい一日であった」「~ができた」「私はいつ死んでもよい」というように、「~してよかった」という毎日を暮らし、「いつでも死ねる」というのが、最後のスカのようです。
「これをしたい、あれもしたい」という人は、本当は明るい人ではありません。冥想においても、「私はなにも願うことはありません」「何かになりたいとするものはありません」と、こころが落ち着いて坐っていることが「ありのまま」でしょう。解脱とは何かになることではないようですが、この勘違いをしている人が多いように思います。

 今回の考察で再度理解したことは、仏教で説くスカ、幸福・安楽とは、「憂いのないこと」「ドゥッカのないこと」であり、やはり幸福感でないことです。ブッダの説く幸福は、感じるという、喜怒哀楽の世界とは異う、憂いや苦しみのない世界であることが再度確認されます。
 
 もし、癌になって余命一ヶ月と宣言されて、癌が治ったら幸福というような幸福観ではとうてい幸福とはいえません。 幸福は今ここにこそあるもので、「いつか、こうなったら幸福になる」という考えが不幸です。

『もろもろの苦しみ(dukkha)の止滅、形成(sankhāra)の止滅は、安楽である』



スジャータ1

冥想と輪廻

冥想と輪廻
 けっきょくブッダの教えは、今ここに気づきを保ち、ありのままを観察することです。禅定なんて考える必要はないと思います。観察すると、今ここで、縁起が見えます。原因と結果、生起と消滅は今ここにあります。縁起を見る者は輪廻を見ます。過去の生や来世を知らなくても、輪廻の仕組みは今ここで観察されます。脳のシナプスの最も源初の連動に輪廻のプロセスがあります。ミクロとマクロは同質です。
「これありてかれあり、これ滅すればかれ滅す」
「無明があれば輪廻がある、無明がなければ輪廻もない」
 輪廻は目の前にあるので、論議の必要もありません。
輪廻も涅槃も今ここにあります。ただ今に目覚めることがブッダなのだとわたしは思います。

 冥想と輪廻 Ⅱ 《 言葉は輪廻の一部分 》
 仏教を学ぶとき輪廻を持ち込んではいけません。ここで言う輪廻とは条件づけされたもの、知識や権威のことです。言葉がすでに輪廻を含んでいます。仏教は知識では学べません。言葉は便利な道具ですが、冥想でも最終的に言葉は不要です。仏教は今ここで、あるがままから学ぶものです。最初に自由がなければなりません。
 今パーリ語の教材にしている、スッタニパータ 第五章 彼岸へ至る道 メッタグー学徒の問い(1049~)から、私の意訳で見てみましょう。
 メッタグー学徒が、ブッタに輪廻の苦しみ起源について問答します。
【いったいどのようにして苦しみが生まれるのですか?】
 
【ブッダが答えました。メッタグーさん、あなたが私に苦しみのはじまりについて尋ねたので、私は知覚している通りにあなたにお説きします。
 それが何であれもろもろの苦しみは、こころが対象に向かう、生の起源からはじまります。
 それを知らないで繰り返し、生に近づく者は愚か者です。
それゆえに、今ここでありのままを観察する者は、苦しみの出生を観察する者となり、言葉や思考を離れて見解をつくりません。】
 このニ偈のキイワードは、upadhiṃ とjātippabhavānupassīです。
upadhiṃ (拠り所・執着)は、こころの拠り所、つまり執着(見解)をつくらないこと。(upādānāは十二縁起の「取・固執」です)
jātippabhavānupassī. Jāti(生・生まれ) pabhava(起源) anupassin(観察する・随観する)、苦しみの生じる起源を今ここで観察することです。
 
1057.
1242
“Dukkhassa ve maṃ pabhavaṃ apucchasi, (mettagūti bhagavā)
Taṃ te pavakkhāmi yathā pajānaṃ;
Upadhinidānā pabhavanti dukkhā,
Ye keci lokasmimanekarūpā. (2)
1058.
1243
Yo ve avidvā upadhiṃ karoti,
Punappunaṃ dukkhamupeti mando;
Tasmā pajānaṃ upadhiṃ na kayirā,
Dukkhassa jātippabhavānupassī”. (3)
 第五章では、いたってシンプルな言葉で、仏教の本質が説かれてあります。あんまりアッサリ説かれているので、表面の文字だけを追って軽く流してしまいそうになります。第四章と五章は、ブッタの言葉そのままの記録だと言われているので、言葉や思考を挟んで読んではいけません。
 正田先生の訳は以下になります。
 1050.(1057)
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、まさに、苦しみの起源を、〔あなたは〕わたしに尋ねました。
それを、あなたに、〔わたしが〕覚知しているとおりに言示しましょう。
それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、
諸々の苦しみは、〔心の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生します。(2)
1051.(1058)
彼が、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔心の〕依り所を作るなら、
〔彼は〕愚か者であり、繰り返し、苦しみへと近づき行きます。
それゆえに、〔あるがままに〕覚知している者となり、
苦しみの出生の起源を随観する者となり、〔心の〕依り所を作らないように」〔と〕。(3)

 冥想と輪廻 Ⅲ
パーリ語勉強会 2017年11月30日 黄檗道場にて 吉水秀樹
 さて、スッタニパータの第五章の「メッタグー学徒の問い」から、勉強会で冥想と輪廻の実際について話し合いました。正田先生・翻訳家の吉田利子さん・翁田さん・宮島さん・容子さんと私、ユニークなメンバーで忌憚なく意見交換しました。
 私は、upadhiが十二縁起のupādānaと同じ言葉だと思っていましたが、実は語根が異なる言葉のようです。この説明は難しいので省略しますが、upadhiの用例だけネットで拝借したものを下に添付します。
 upadhiは、依・依存・執着・所有物などの意味があります。さて、これが冥想実践で何を意味しているのかが問題です。
経典のブッダの言葉は、「こころの依りどころをつくらないように」です。この「こころの依りどころ」を単に言葉として聞き流すことは簡単です。しかし、自分の日々の冥想実践で具体的に「こころの依りどころ」が何を意味しているのか、「こころの依りどころをつくらないように」が具体的にどうすることなのか、瞬時に理解体得することは簡単ではありません。
これが「苦しみの出生の起源」でもあり、それを観察することがすべての苦しみをなくす、輪廻からの解脱のカギになるからです。
「こころの依りどころ」とは、普段わたしたちが無自覚に作っている「名称・命名」であり、「ある」という思考だと思います。なるほど、日常の暮らしで、「名称」と「ある」は、必要不可欠な知識・記憶・思考の流れで、わたしたちの「こころの依りどころ」に違いありません。これらがなければ欲界での日常生活は成り立たないとも言えます。
しかし、冥想中はこれが妄想であることは、ブッダの冥想実践者なら理解できると思います。冥想中に、カラス・ペットボトル・電話・お客さん…と、名称・認識(ある)と繰り返していれば、それは冥想にはなりません。
 「感覚で終わる」ことが肝心なのはみんな一致しています。さて、正田先生の話では、私たちの日常はこころと身体がシンクロせずに、離れてあると。そこで、感覚に対象が触れると、「カラスがいる」、「ペットボトルがある」となります。最初に、私と現象界(こころと身体)が離れているから対象に向かってしまいます。このとき、「私とカラス」「私とペットボトル」「私と電話」など、二つがあるわけです。二項対立の図式です。普段の生活ではこれは問題にはなりません。「私がある」「対象がある」、我の世界です。
 こころは対象に向かい、対象物を作って…、これが依りどころの実際です。つまり、執着です。しかし、こころと身体が完全にシンクロして、一つであるなら、そこには「私」と「対象物」は生まれません。「音」や「光」だけがあり、「あるがまま」です。私という中心も私もありません。「感覚で終わる」とは、冥想の実際ではこのような状態です。こころと身体が完全一致しているなら、なぜわざわざ感覚に名称が要るのかという問いが生まれます。
 教えられたように、音音音、痛み痛み痛み、と五蘊の習慣力を放っておくと、やがて感覚だけで、終わらせることが出きるようになります。たいていこの状態まで進めば、こころと身体はシンクロして、エネルギーの浪費は起きません。その浪費が、想念や識蘊、過去の記憶や感情や思考です。これらを継続させてエネルギーをつくり、浪費することが輪廻の正体だと私は思います。

けっきょく、「こころの依りところ」とは、妄想のことです。私たちの世俗の暮らし、欲界では妄想こそが肝心なようです。国際情勢も日本のマスコミも妄想を依りところにしているのはあきらかです。
 されば釈迦牟尼世尊説き給う『急ぎ出離の要諦を求めよ。更に妄想に執着することなかれ。』と

☆upadhiの用例
「初期経典における upadhiという用語は、訳者によって様々な訳が与えられており 、具体的に何を表している用語なのか、明確ではない。そこで、先行研究を参考にすれば、 upadhiには大別して、二つの意味が与えられている。一つは「所有物」を意味するもの、もう一つは「執着」を意味するものである。upadhiは upa- dhāからなる名詞であり、接頭辞と語根の意味を考慮して訳せば、「近くに置く」という意味である。」
仏陀