『安養寺みんなの仏教』レポート          2016年10月29日 於く:安養寺本堂


 今回は初めての参加者が二人、また他の道場で冥想経験のある方も参加され、30代から80代まで、バラエティのある普通の日本の仏教寺院の特色を感じる冥想会でした。あらためて思ったのですが、私のお寺には平安や鎌倉時代の仏像が当たり前のように並んでいます。冥想道場(禅坊)としての歴史は室町時代からです。初めて参加された方がこのお寺の雰囲気が気に入って…、と語って下さってあらためて、道場としての安養寺の特徴が感じられました。平安時代から藤原氏の別荘地で環境条件は悪くありません。農村の村社会の残影と田畑と竹藪が残存している日本の寺院なのですね。
 参加者から、冥想に入る時のこころと身体のかい離状態の問題と言った内容の言葉がありました。ごく普通の世俗的な暮らしをしていた人が初期仏教の冥想に出会い、冥想の実践をするのですが、こころざす静寂の世界と、現実の自分とのギャップに苦しむと言うことでしょうか? 聖者と言われるような人は、こころと身体が一つになっていて、それ故に日常の立ち居振る舞いが穏やかで、何をしていようと矛盾や葛藤がないと思われます。それに比べて私たちは、こころと身体がかい離していて、こころは月の世界にまで行くのに、現実の身体はこの地上にのこされたままで、このギャップに苦しむということでしょうか? 本人の意図するところが私に理解できているのかよくわからない部分もありますが、本で読んだりして思考でイメージする冥想の世界と実際に座った時の現実のズレは誰にでもあります。また、こころが身体に起こる現実をありのままに見ることについていけない、それは身体に起こるありのままが余りにも速く、観察がついていけないという問題でもあるのでしょうか。
 この問題は冥想実践者の誰もが経験する登竜門と言えると思います。
中核となるテーマは「あるがままの自分」と「あるべき姿」との葛藤ということでしょうか。
どんな問題も、その最も本質的な問いかけを自分で見つけた時に、答えもそこにあり、問題はすでに解決されていると思います。
・「あるべき姿」とは、冥想で目指すところのこころの静寂とか、イメージする冥想の世界でしょうか。
・「あるがままの自分」は、ありのままの現実です。こころが混濁し習慣的な思考が滝のように現れることでしょうか。
 どちらが妄想なのかと言えば、前者の「あるべき姿」が妄想で捨てるべきものですね。多くの初心者は、「あるべき姿」大切にして、「ありのままの自分」を捨てようと努力するわけです。この努力こそが、かい離の正体で、葛藤ではないでしょうか。
 冥想で大切なのは何だったでしょうか? 冥想で目指すものがあるとすれば、それは理想ではなく、「ありのまま」ですね。またそれは現に「今ここ」にあるものですね。つまり、目指すものではなく現にあるものです。ありのままの自分が泥を掻き回したように混濁しているのなら、大切にして観察に値するのはそのありのままの姿の方ですね。
 ニャーナラトー師でさえも、座った時は微細なことであっても、こころはそれを追いかけて混濁しているというような言葉でを語って下さいました。別の冥想道場で学んだSさんは、「こころはそもそも刺激を求める」と説明して下さいました。楽しいことでも、嫌なことでも、関係なくこころは刺激を欲しがるというこころのありのままを知ることでしょうか。資料にあったように、こころは野生のクマのようなものです。実況中継(気づき)でつなぎとめないと、大人しくしません。あれこれかまわないで放っておくとやがて大人しくなるものでもあります。こころの静寂がすなわち、こころの寂滅、つまり放っておくこと自体が解脱ですよ! スタートとゴールは一緒なのですよ、気づきを保ちなさいよ、というのはブッダの言葉です。
スポンサーサイト

パーリ語勉強会報告 2016年10月27日 於く:安養寺庫裡


 今回で「迅速の経」の勉強が終わりました。以前から何度か別の会でもこの経を学びました。経典の前半のハイライトは、916(922)のブッダの言葉だと私は思います。その中核となる言葉は ”Mantā asmīti sabbamuparundhe”(マンター アスミーティ サッバムパルンデー)で、私流に超訳すると、『 智慧によって「ある」という考えを破壊する』という言葉です。私がある、家族がある、家がある、お金がある…、「ある」ということが錯覚であって、妄想であることを私たちは認めたくないのです。「無常・無我」という真理を認めたくないということです。これこそが全ての悩み苦しみの原因に違いありません。
 今回勉強して、後半のハイライトは、933(939)だと思いました。933は涅槃経のブッダ最後の言葉によく似ています。意訳は以下のようになります。
933「この法を知って、冥想者は常に気づきのある者として、寂滅を寂静であると了知し、ゴータマの教えにおいて気づきを保つように」
 この偈の中核は、”Santīti nibbutiṃ ñatvā,”( サンティーティ ニッブティン ニャトゥワー)ではないでしょうか。訳すると「寂滅を寂静と了知して」とか「寂静と、寂滅を了知して」となるのでしょうか?
 そもそも仏教をある程度勉強している人でも、「寂静」と「寂滅」は違った言葉からできていることを知らない人も多いかと思います。
 寂静=santi サンティ 女性名詞 寂静・寂止、水野辞書には寂滅ともありますが本来、静けさをあらわす言葉かと思います。
 寂滅=nibbutiニッブティ 女性名詞、nibbātiの「消火する」が元の動詞形でしょうか、そこからnibbānaニッバーナ=涅槃・寂滅という言葉ができています。
 
 さて、この部分の真意は何でしょうか? 「寂静が寂滅であると了知して」とは訳せないのでしょうか? 私は自分の冥想体験から「寂静を寂滅であると了知して」の方がスッキリと意味が理解できるようにも思います。「こころを静めて、静めて、そしてそこに涅槃がある」というのではなく、「こころを静めて、静めて、そこにはなにもない」というのがこの偈の真意ではないかと思うのです。

933「このような教えをよく知って、常に気づきある者として、寂静を寂滅であると了知し、ゴータマの教えにおいて気づきを怠らないように」
934「まさに、ブッダは感情に征服されたのではなく、感情を征服した。真理を人から伝え聞いた者でなく、自ら真理を体験した。それゆえ、かの世尊の教えにおいて、怠ることなく気づき、敬礼して学べと」

2016,年 10月23日 『ブッダの冥想研究会』報告  於く:安養寺庫裡  吉水秀樹

  クリシュナムルティの「神話と伝統を超えて」第八章 「条件づけについて」について話し合いました。その話し合いから考察した内容を報告します。

   
   『冥想とは』  ― 冥想と思考 ―

  初期仏教の気づきの冥想を始めたころ、長老から「冥想とは思考を完全に捨て去るチャレンジです」と聞きました。最初は何のことかよくわかりませんでしたが、冥想中に音が聞こえて「カラス!」と勝手に命名したりすることから、冥想中の妄想は思考であり、思考=妄想であることが理解できました。また、冥想中の瞬間瞬間に現れる短い思考は夢と何ら変わらないものです。多くの人は、自分たちがこれまで、それこそ人生で最も頼りになると思って大切にしていた知識や思考が妄想であり、不必要なゴミであることを簡単には納得がいかないはずです。
 まず、私が話題にしている思考とは、こころとか精神と呼ばれているものとは別ものであることを理解してください。思考は脳の働きで、ある意味で物質的なものです。「トマト」「スマートフォン」という言葉を見て、日本人が起こす反応はおおかた同じです。これが知識や思考の姿の原型で、それ以上の何ものでもありません。
思考は過去のもので有限です。私たちが古代から求め続けている、神とか、完全な幸福とか、永遠なるものとかは、思考の領域にはないものです。それは、不安定なこの世にある思考が完全な安定・安心を思考の中に求めることです。ここに第一の矛盾、思考は思考の領域にないものを求め続けているという矛盾があります。
 また、思考は現にあるありのままのものをちっぽけな過去へ引きずり込む行為であることを今一度理解してください。思考はそれが何であれ過去のものです。私たちが短い人生で経験してきたことや記憶から知識が生まれ、その過去を材料にして命名したりします。一たび思考が始まると、現にあるありのままのものを見ることをしません。それは、子供の運動会を見に行った親がありのままの子どもの姿を見ずに、ビデオカメラのファインダーに夢中になっている姿と似ています。思考は常にありのままの世界を過去へしまい込むのです。それは人が常に恐怖という衝動を持って、安定や安全を求め続けている証でもあります。
 さて、その思考が制限され、条件づけされているものであることに気づいたら、思考を捨てようというアイデアが浮かびます。これが、私が冥想と呼んでいるものの本質です。しかし、ここで第二の矛盾があります。思考には自由がないと覚ったのも、その正体は思考なのです。さてそこで、最も本質的な問いかけが起こります。
 私のこころが思考という道具を使って、こころとは思考とは何の関係もない異次元のものであることを覚った時に何が起こるでしょうか? こころが思考の中のどこを探しても自由はあり得ないことを覚った時に何が起こるのでしょうか? 
今までの人生で経験したことのない流れが生まれます。こころが静寂の方に一斉に動き始めます。脳がこころになるのです。

 J.Kの引用『あなたが断崖絶壁や野生動物の危険性を見るときのように、条件づけされた思考の危険を見るとき、それはいかなる努力もなしに消え去って行くでしょう』

講座案内

講座案内
アチャン・ニャーナラトー師の法話の会

日程 10月2日 午後一時半~

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

安養寺にお申込みください。問い合わせ先(メール) bbjazz@amber.plala.or.jp(吉水 秀樹)


【京都ダンマサークル】

10月15日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)

内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観



【ブッダの冥想研究会】

10月23日 日曜日 午後一時半~

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) bbjazz@amber.plala.or.jp(吉水 秀樹)

内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。




 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)

 『冥想とは』 ―古い脳、爬虫類動物脳を理解する―



 今ここで、新しい脳が生き生きと活動している時、古い脳には新しい脳の活動が理解できないようです。こころ(脳)にはまったく異った働きが存在することを理解できるのは、古い脳、つまり条件づけされ、習慣力で働く私たちが通常使う脳、いつでも何かをつかみ取ろうとする古い脳がおしゃべりも止めて静まりかえったときだけです。
 そして、この世のありのままを理解するためには、古い脳を理解し、その働き、機能、要求を知らなければなりません。そこで冥想が必要になるのです。冥想とはある特定の思考習慣を身につけることではありません。
 冥想とは、古い脳の働きを理解すること、観察すること、古い脳がどのように条件づけられて反応するのか、その反応の傾向、要求、態度がどのようなものなのか知ることです。意識的な部分だけでなく、無意識的な部分も含め古い脳全体を知ることです。古い脳を支配しようとしたりせずに、指図したり、「これはよし、あれはダメ、これは取っておく、あれは捨てる」などと一切の思考判断は使わず、ただ古い脳の働きに気づいていること、こころのそういった働き全体を見ているとき、それこそが冥想であり、静かな精神の祝福なのではないでしょうか。                            J.K「四季の瞑想」10/16参考


「冥想とは」 ―自分を知る、こころを知る―

 冥想とは自分のこころをありのままに見ることです。さて、そのこころを見ることですが、これが簡単そうで、並たいていでないことは皆さんも気づいておられると思います。そもそも、こころには実体がありません。目に見えません、聞くことも、匂うことも、味もなく、触れることもできません。いったどうしたら私たちはこころを見ることができるのでしょうか。ややこしい点は、こころを見るその主体は何なのか? と、自分に問いかけてみて下さい。実はこころを観察することもこころがしていることなのです。こころを観察しようとしているのも、こころなのです。

さて、ありのままのこころを見る最も知的な方法を「気づきの冥想」と呼びます。冥想でこころを観察する前に、こころについて知っておいた方がよいことがいくつかあると思います。こころ、コロコロなどと言いますが、実にこころはコロコロと変化してつかみどころがありません。今、冥想しようと思った、次の瞬間には喉が渇いたので何か飲みたいと言います。また、次の瞬間にはお腹が減ったので先に食事にしよう! と、こころは我がまま放題です。
 こころは清純で美しいもの、浄らかなもの、などとイメージしていたら大変な目にあいます。こころは野生の馬のようなもので、扱いにくく、我がままで、乱暴で強引で、礼儀正しくはありません。
 冥想でのこころの「取り扱い注意事項」の一つは、こころをまともに相手にしないことです。ニャーナラトー師も冥想を一言で言うなら”doing nothing”とおっしゃいました。何もしないこと。放っておくことです。かまえばかまうほど、暴れるのがこころの性質です。ときどき呆れて微笑んでながめるくらいがいい距離です。放っておくとあきらめておとなしくなりますが、また次の対象へと向かってあなたの注意を惹くので、油断せず懲りずに放っておくことです。
 もしも、自分のこころが歪んでいたり、汚れていたなら、決してありのままを真っすぐに見ることはできません。こころが抑圧され、制限されていても、ありのままを見ることはできません。こころが条件づけされ、恐怖があっても、ありのままを見ることはできません。
最も、ありのままを見ることを妨げるものは、他ならぬあなた自身であり、あなたの知識や記憶です。知識はありのままを見ようとするこころをわき道にそらし、これはタンポポだ、コスモスだ、と知ったかぶりします。ありのままのこころを静寂のなかで見るためには、こころが備えている、考える機能やイメージしたり、想像する大きな能力は脇へ置いておかなければなりません。
何故なら、こころ自身がしてきた多くの経験や、知識から自由であるときに、はじめて過去のものでない、あるがままのものを見ることができるからです。そうでなければ、それはただの知識や過去の記憶のくり返しに過ぎません。




「冥想とは」  ― こころの葛藤について ―

何かをしている時に他の何かをしたくなる。このようなことは日常茶飯事ですね。本を読んでいる時に何か思い出してメールを見たくなる。パソコンで仕事をしている時に洗濯物のことが気になり洗濯物を干したくなる。うどんを食べている時にラーメンにしたらよかったと思う。しかし、Aさんと結婚している時にBさんを好きになる、これは問題ですね。このような葛藤は苦しみのもとになります。それでは小さな葛藤は問題ないのでしょうか?
今朝、冥想をするためにお堂に入りました。座る動作をしている最中に、野菜の種まきをしたくなりました。朝畑の様子を見たら長雨のために秋野菜の発芽状態が悪く、もう一度種をまく必要があると思ったからです。その時、冥想は後でもできるが、種まきは急がれているという思いが浮かびました。一瞬のことですが葛藤が生まれました。冥想をしようとしている時に種まきがしたくなったら冥想はできません。私は冥想がしたいのに、野菜の種まきをしろとこころが命令を下すのです。しかも、冥想は後でもできるが、種まきは急がれているという思考までつくられました。その時、そうするべきなのではと思いました。
さて、いったい私は何がしたいのでしょうか? 本当に種まきは急がれているのでしょうか? 
このようなこころの動きを「葛藤」と呼びます。葛藤から学ぶべき点がまず二つあります。一つは「こころの寿命は瞬間であること」もう一つは、「こころは本来わがままであること」です。

★こころの寿命は瞬間
 こころと言っていますがこれは私自身のことであり、瞬間瞬間の思考のことです。こころの寿命は瞬間です。つまり、冥想がしたいという私は次の瞬間には死んで、次の瞬間には種まきをしたいという私が生まれています。とちらも同じ私(我)と呼ばれている生命の思考(妄想)です。このことを理解したら、刻々とあらわれる思考もその元にある感情も相手にせず、簡単に手放すことができます。どの思考も現れては消えるつくられたもので、無常です。それらに左右されずに、間をおいてありのままを見ることができます。
★こころは本来わがまま
 生まれた思考には背後に感情(煩悩=欲)があり、欲は自分の正当性だけを主張し欲望を実現させようと働きます。欲の感情は種まきは冥想の後でもできるのに、種まきは急がれているなどと根拠のない思考をつくって自分の正当性だけを主張します。背後に貪欲という煩悩が動いていることを観察できれば、こころのわがままに左右されなくなります。感情がすべてを支配しているのではなく、ありのままを見て理性が感情を制している状態です。
 
 このような問題は「葛藤」と呼ぶもので、葛藤はない方が楽に生きられます。選択は自由なようで苦しみを伴っています。あまりにも葛藤と選択の多い日常を暮らしているので、それが当たり前で、「苦しみ」であるという自覚がなくなっています。

☆葛藤は、「あるがまま」と「理想=妄想」との間に起こるのです。ありのままの私を理解するためには、今ここにない、理想の私、自ら投影した未来の私がすっかり姿を消さなければなりません。
☆葛藤の行為はそれ自体のエネルギーを持っており、それは分裂的です。しかし、ありのままの観察とそれから起こる行為はまったく別物です。そのエネルギーは、分裂を生み出さない。
☆ワタシが葛藤から自由になった時に初めて、真なるものがありうるのです。
                           ※参考J.K「葛藤について」


《アチャン・ニャーナラトー師 法話会報告 》  於:安養寺 2016年10月2日


Ajahn-Nyanarato-by-Somkid-copy.jpg
14445220_980063932120681_2445696970274345399_o.jpg

洛南タイムス2016.10.2
《アチャン・ニャーナラトー師 法話会報告 序文》  於:安養寺
平成二十八年 十月二日 吉水秀樹

多くの方々の協力をえてニャーナラトー師法話会を無事に終えることができました。素晴らしい時を多くの人と生きた実感があります。細かい報告は後にして私の感想を話します。
お釈迦さまにはいろいろな呼び名がありますが、釈迦牟尼如来・釈迦牟尼仏などとも呼びます。牟尼はパーリ語のムニmuniの音写です。漢訳では「寂黙・沈黙・黙者・賢聖」などで、意味は静かに冥想のなかにあり、ものを言わないことです。ですから、ブッダは「沈黙の聖者」と呼ばれています。もともと仏教はいわゆる宣教活動はしません、布教という言葉はありますが、見解の押し売りはせずに、訪ね求めてきた人に法を説くという立場です。仏教の理想の境地をニッヴァーナ=涅槃寂静といい、もう二度と生ずることがない究極の沈黙です。ニャーナラトー師に法話のお願いをしましたが、頼まれたので話すということであって、基本的に師に何か言いたいという衝動は無いのだと思います。「言いたい」という衝動は根が深く、世の政治家や雄弁な人を見たらわかるように、「私は正しい」「オマエは間違っている」と、言いたい衝動の止められない人は世俗にひしめいています。「言いたい」「何か言わないでは気が済まない」という感情自体がこの世の中を掻き回す、諸悪の根源であることに気づいていないのでしょう。ニャーナラトー師のこころの波動の側にいて、師の姿を見、師の声を聞くとその瞬間に、私の言いたいという衝動も死にます。師のこころの波動で貪りが消滅し、同時に静かな精神の祝福が生じます。師はムニ、沈黙の行者と呼ぶのにふさわしい方です。普段私が接する人々にも、それぞれの香りがありますが、ニャーナラトー師のこころのそれは格別なものです。ブッダの言葉にピッタリした偈があるので紹介します。

{花の香りは風にさからっては行かず 栴檀もジャスミンもマリカの香りもそのとおり
しかし、善き人の香りは風に逆らってもゆく、善き人の香りはすべての方向に薫る}
{栴檀とジャスミンとスイレンなど、これらの香りのなかで、戒め(道徳)こそが最上の香りである}
{栴檀やジャスミンやスイレンの香りは微かです しかし、戒め(道徳)をたもつ人の香りは世に比いなく、神々にもとどく} Dhamma pada 法句経54.55.56


《アチャン・ニャーナラトー師 法話会報告No,1》
 『冥想について』
 在家仏教徒の五つの道徳すら満足に守れない私ですが、毎日冥想をしています。だいたい45分くらい座るといよいよ日常的な混濁した感情と思考の世界から離れて、落ち着いて音や身体の感覚、妄想をありのままに観察できるようになります。冥想の第一ステージとでも言うのでしょうか、そこに至るのが精いっぱいの私です。
そこで私の質問は、「戒律を保ち世俗から離れて浄らかな生活をされているニャーナラトー師なら、座った瞬間からこころの静寂に住されているのでしょうか?」といった実践的な質問をしました。ニャーナラトー師の答えは、「いやいや、それがなかなか…」からはじまって二つの大切な教示がありました。

★こころは常に対象に向かう
例え浄らかな暮らしをしていようが、こころの性質はそもそも対象に向かうものであること。これは何気ない言葉ですが大変重要なポイントだと思います。こころはそもそも対象に向かうとは、こころはそもそも乱れる、刺激を欲しがる、思考を始める、こころとはそういうものであるということでしょうか。
 僧院で冥想中にチョコレートのことを思い出した。情けない話ですが…と恥ずかしそうに、
タイの田舎ではチョコレートは高価でめったにお目にかかれない、僧院に一枚のチョコレートがあると、自分がもらえるのは1.5㎝四方の一切れで、それが食べられるだろうか、明日もあるだろうか、と妄想するお話し… 一見バカバカしい話のようですが師がその小さな小さなありのままの自分を丁寧に観察されている姿にこころが震えました。こころの世界では小さなものほど大きく、大きなものほど小さい、小さな小さな自分の衝動に丁寧に優しく気づくことが如何に大切か、物質があふれた世界では一片のチョコレートの存在など気づくことすらありません。自分が愚かであることをこころの底から知るものがすなわち賢者であるというブッダの言葉を思い返しました。

{こころは、わがままで制しにくく、欲するところにおもむく そのこころをととのえることは善いことです ととのえられたこころは安楽をもたらす} Dhamma pada 35

 ★ラーカータオカン=等価値
冥想中、こころがなかなか静まらず、くだらない妄想が続く、知らず知らずに「浄らかになりたい」「浄らかになりたい」とあるがままの自分を見ることから離れていることに気づいていません。この時こころは二極に分離しています。「善いものと悪いもの」「静寂と混濁」あるがままを見ずして、未来の理想ばかりを追い求めている状態です。日ごろの私たちは、常に楽を求め、苦を嫌っています。それが習慣化されて、善いと思うことを正しいとして求め、悪いことには敵意を持つように条件づけされていることに気づいていません。
アチャンチャーの言葉から、ニャーナラトー師は「こころの静寂」と「こころの混濁」が等価値であることを示されました。「ラーカータオカン」という言葉です。中道と言い換えることもできるのでしょうか。あるがままが混濁なのだから、そのありのままを見ることなしに、どうして先に行こうとするのでしょうか。
冥想中に妄想がつづき、こころがそれを否定しようとこころが前のめりになる。あと15分座ればきっと静寂に至る、と力が入るその時。その瞬間こそが、ラーカータオカン、等価値、何もしないで止まるポイントであるということでしょうか。こころの静寂と混濁が等価値であることに目覚める。離れる。手放す。捨てる。結局またしても自分の状態に執着している、自我のワナにはまっているのですね。

《アチャン・ニャーナラトー師 法話会報告No,2》 
『戒め(道徳)と規律について』(ニャーナラトー師の法話を聞いての考察です)

 私の質問の背景からお話しします。日本の仏教は三学の一番目の「戒」のない仏教、と批判の声を聞くことがあります。自身を振り返ったらまったくその通りです。本にも書きましたが私はその行為の結果を受けたので何も言うことはありません。しかし、初期仏教に出会ってからは、正しく守れなくても在家の五戒は毎日意識するようになりました。そうして、私のこころは自然に成長していると思っています。私は未だに無戒破戒の愚か者ですが、例え金正恩のことでもその場にいない人の話は、綺語として避けるようになりました。その場に居ない人のことは語らないという智慧が自然に身についてきたと思っています。今の私は、道徳はそのような自然なものでよしとしています。律となると話は違ってきます。
戒や律が厳しいものなのか、母の愛情のように優しいものなのかは簡単には断定できません。母の愛情も時には厳しいこともあります。
ニャーナラトー師は私とは違って、二○○以上の戒律を守っておられると聞いています。午後は食事をしない、お金には触れない、身を飾らない、異性には触れない、一般の人から見るととんでもない規則です。そんな訳でニャーナラトー師にとって戒律とは何であるかを質問しました。
師が語られた最初の言葉は「楽です。しかしそれだけではありません」でした。

★「お金を持つ自由」と「お金を持たない自由」、「選択の自由」と「無選択の自由」、
「有価値の自由」と「無価値の自由」
 普通、世俗の私たちは、お金があって欲しいものが手に入ることが自由と考えています。しかし、この自由が危険なことはすでに仏教に入門した人は知っていると思います。最初に欲しい欲しいと思うこと自体が苦しみであることを知らなければなりません。お金があってAが欲しいと思う、ところが手に入ったのはBであった、「何だBかよ!」と不満になります。お金を持たない人なら、基本が無いで当たり前の世界にいますから、AでもBでも問題なく喜びが生まれます。
タイで働くビルマの貧しい労働者がバンコクの都会に遊びに行った、師が楽しかったかと尋ねると、答えは楽しくなかったと、物があふれて欲しいものが一杯あっても彼らの財布では何も買えないので苦しみばかりだという話です。ニャーナラトー師がロンドンの街を歩く、最初からお金を持たないので欲しいと思う必要すらなく、ただありのままを見る、そこには苦しみは無いと想像できます。欲がないと怒りは生じない縁起がそこにあります。
冥想の実践でも六門から入ってくる感覚情報を最初は選択していますが、冥想が進むと無選択の自由があらわれます。選ぶことは自由なようですが、そこに必ず、葛藤、苦しみがあります。無選択・無価値の自由が本当の自由なのではないでしょうか。

★「どうしたら在家の人々に迷惑をかけないか…」
師のこの言葉を聞いて背筋に衝撃が走りました。そもそも私の立ち位置と師の立ち位置の違いに、自分が恥ずかしくなりました。お遍路の時も、店の前では人に迷惑になるし、道の駅の端で控え目に托鉢されている師の姿が目に浮かびました。戒律を保つにも、そもそもその立ち位置が何処にあるのかという問いかけは自分でしなければ誰も教えてはくれません。

※戒律は、そもそも身を縛るものであると言えそうです。これはしてはいけない、あれはしてはいけない、これはしないでおこう、そうして身を縛るものではあるけど、こころのお守りには違いありません。「しないでいいことをしないでおいた」この喜びは人生では想像以上に大きいと思います。幸福な人生を棒に振って、不幸に堕ちる人は、しないでいいことをした人なのでしょう。
〔参加者の感想〕
そこにおられるだけで、癒されるような素晴らしいパワーをお持ちの方でした。お話もわかりやすく、またユーモアもまじえて丁寧にお話くださり、感激いたしました。  N.M

関西でのニャーナラトー師のお話を初めて実際に体験でき、とてもありがたかったです。
やわらかい口調で、すんなり入ってくるような素直に受け入れられる感じがしました。
 会場のお寺もすごく良い所で、また是非こういった機会を設けて頂ければと思いますし、ここでの冥想会などにも参加させて頂きたいと思います。 S.T

一とは実は豊になることだというお話し、とても深いと思います。頭では理解しているつもりですが、体得はまだまだできていません。今日お話しくださったこと、反すうして見たいと思います。 N.T

 ニャーナラトー師のお言葉にありました。お釈迦さまからの一本道という実感がありました。今のこころと身体の状態は「脱力」です。中道というものが少しイメージできるようになったようです。身近な関西出身の日本人比丘であるニャーナラトー師の修行から発せられた「ことば」の数々は、理解したというより体験した手応えがありました。終盤の住職さんの具体的な質問と師の手ぶりを交えた応答は、こころに刻まれるものがありました。仏教の実践の意欲がじんわりと湧いてきました。    R.K

ニャーナラトー師が、一期一会、いまここ、はひとつだけれど、2とか3がある1ではなくて、それが絶対であり、今は過去と未来を切り捨てたいまではなくて、過去も未来も含まれている豊かな今だ、というような(ごめんなさい、間違っているかも)
ことをおっしゃったとき、ああ、そうなんだ! と、とても嬉しくなりました。クリシュナムルティも同じようなことを言っていたような気がしますが、今までは、切り捨てて切り捨てて、残ったものが大事なんだとつかみかかる、というような姿勢だったと思います。でも、今ここ、それしかなくて、だからこそ、それがすべてで絶対なんだ、というのは、青空がぱーっと広がるような気持ちになりました。
あとは、アーチャン・チャーの静かな心も揺らいでいる心も値段は同じ、ラーカー・タオカンだという言葉が印象的でした。いまここに揺らぎまくる心しかないとすれば、それが、いまここ、絶対で、それしかないし、それがすべてなんですね。
ニャーナラトー師は、doing nothing とおっしゃいました。これは、高槻でもおっしゃっていたと思います。そしてこれも、クリシュナムルティが言う観察者と観察されるものは同じ、何もせずに、ただそれにとどまっていれば花開いて、萎れていく、という言葉に通じるような気がいたしました。 T.Y