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講座案内

講座案内
【英知の学び交流会】

日程 9月4日 日曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)

内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

学びのガイド 正田大観



【みんなの仏教】

日程 9月10日 (原則 第二土曜日)・13:30~17:00

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) bbjazz@amber.plala.or.jp(吉水 秀樹)

内容 ブッダの冥想を実践し参加者一同で意見交換をします。

学びのガイド 吉水秀樹



【京都ダンマサークル】

9月19日(月曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)

内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観



【ブッダの冥想研究会】

9月25日 日曜日13:30~17:30

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) bbjazz@amber.plala.or.jp(吉水 秀樹)

内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。




 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)
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初期仏教「 京都ダンマサークル」  黄檗道場勉強会 9月19日 報告(No,1) 吉水秀樹


   『関係について』
 夫婦関係・家族関係・社会的な人間関係、生きるということはズバリ「関係する」ということのようです。
 極一般的に言っている「関係」とは、その正体を観察したら、執着のことであったり、利害のある慢であったり、背後に生存欲が見え隠れする妄想である場合がほとんどです。
 会社でのストレスのある人間関係は生きる為の手段でしょう…
 愛情の壊れた夫婦関係はそもそも夫婦とも呼べないし、金づる、哀れな人間の生きるための選択肢でしかありません。動物なら見向きもしない相手に対して、利害を作ってわざわざ近づいているわけですね。

 普通の夫婦や家族にもそれ(毒)が混じったりしています。そのような関係ではない関係はあるのでしょうか?
 もしあるならそれは、今ここにありのままにあるようですね… 過去や思考を介在せずに…
 それは関係なのか何なのか、良くわかりません。関係のない関係なのでしょうか? もし、「愛」っていうものがあるならそれかもしれません?

追加: たまたま遅れていって配られた資料に十八界のことが書いてありました。知っておくと冥想の助けになると思います。

 仏教用語。すべての存在をわれわれの認識関係からとらえた 18種の世界。
①六根 → 眼,耳,鼻,舌,身,意の6種の感覚器官
②六境 → その対象である色,声,香,味,触,法の6種
③六識 → 対象と感覚とによって生じる6種の心の働き,すなわち眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識 。

冥想でも、先ず六根の「耳」があります。これは自体は認識できないと思います。
そこに六境の「声」が触れます。「声」自体も認識できるのかは私は解りません。
そうして、六識の耳識があらわれます。「カラス」というのがそれに該当するのか、「音」なのか、ここも私はよく解りません。
「カラスが鳴いている」ではないと思います。これは思考ですね。五蘊(色受想行識)の「想」までは、六識の耳識なのでしょうか?
ともかく、私たちが認識するのは、六根でもなく、六境でもなく、六識なのではないでしょうか? そういう訳でこの世に真実在としてあるのは、この十八界だけというのは、真実であって、「ワタシ」とか「スマナサーラ長老」とか「金正恩」とかは妄想の産物、作られたものだと思います。真実在としてのスマナサーラ長老はおられます。

 『気づきの冥想』 ⋄⋄⋄二種の気づき⋄⋄⋄

   『気づきの冥想』 ⋄⋄⋄二種の気づき⋄⋄⋄

 冥想では、何をおいても「気づくこと」が肝心ですね。これは自分に気づくこと、自分の思考に気づくこと、感覚に気づくこと、さまざまな身体の感覚に気づくこと、感情に気づくこと、思考を支配している元の感情に気づくこととも言えます。また、それは常に「今ここ」「ありのまま」を観察することでもあります。
 ところで冥想実践をしていると、この「気づき」にも種類があることに気づきます。最初は教えられたように、お腹の膨らみや縮みに気づきます。呼吸に気づきます。外界の音にも気づきます。冥想の最初の段階での気づきは、教えられた冥想の知識から、意図的に対象を選んでの気づきのトレーニング、導入と言えると思います。少なくとも私はこのように、毎日三回の深い呼吸をして、膨らみと縮みの観察から冥想に入ります。これは分類すると「意図的な気づき」です。自分の意志で対象を選んでsatiサティ=「気づき」に努めます。
 こうして冥想を続けます。20分か30分が経過しますと、いろいろな障害も起こりますがいよいよこころが日常の状態より穏やかになります。こころの静寂に近づくと、気づきの対象を選ぶ意図的な思考も消えていきます。そこで起こるのが意図的でない気づき、「無選択の気づき」です。六根である、眼耳鼻舌身意に、外界つまり、六境の色声香味触法が「触れる」と「受」(感覚)が生じます。これは私の意志とは無関係に起こります。ですから、素直に気づきを続けると、自然に無選択の気づきへの移行が起こります。大きな音や、新たに涼しい風に触れると、自然に気づきはその対象に向かいます。そして、気づいて放っておく…、ただこれの連続です。この段階では思考は起こり難くなりますが、思考が起こっても、同じように気づいて放っておく、これの連続です。さらにこころの静寂が深くなると、今までは「有」つまり、音や皮膚感覚の「有」だけに気づいていただけでしたが、「無」音の無い瞬間や、思考と思考のすき間の「無」に気づくようになります。この瞬間には「私」はありません。私が誰かもわからない瞬間です。何処にいるかもわかりません。これが不安ではなく、自由や幸福、静かな精神の祝福のように感じます。