パーリ語勉強会 2018年7月11日 黄檗道場 吉水秀樹 



スッタニパータ 第五 彼岸に至るものの章 12 ジャトゥカンニの問い 1096-1100

今回は「ジャトゥカンニの経」一つを学びました。4章・5章は内容が濃いことは言うまでもないのですが、特にこの偈は全体が5偈の短い経ですが、ブッダの答える三偈に仏教の真髄が凝縮されていると感じます。その証拠に、1099偈は、4章の「自己の棒の経」の949とまったく同じ偈が使われています。同じ言葉が二度出てくることは偶然ではありません。大切なフレーズだから、ブッダの口から繰り返し出たのでしょう。
それではブッダの返答の3偈を私の言葉で解説してみます。

「かくのごとく、ブッダは答えた。ジャトゥカンニさん、諸々の執着を捨てなさい。離欲を『平安である』と見て、執着するものも、執着の対象として捨て去るものも、何ものも見い出されてはなりません。」(3)1098

★「離欲を平安であるとみる」、世俗の人々は欲望を叶える、欲を得ることが幸福と考えています。ブッダは「欲から離れることが幸福である」と、まず説いています。
★「執着するものも、捨て去るものも、何もない」。凡夫は自我を捨てる、私を捨ててしまうなんて、とうてい私にはできないと言います。しかし、私と言っているものがそもそも、存在しない妄想概念なので、無我が健康正常の当たり前で、執着するものも、捨てるものもはじから無いと語っています。私のスマートホンと言うとき、「私」も「私の」も「スマートホン」も実体として存在しない。「ある」というが妄想概念はしつこいです。「見える」「聞こえる」など、五蘊の生滅を観察すべきでしょう。


「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、その中間の現在において、何ものも収め取らないなら、あなたは寂静なる者として、世を歩むでしょう。」(4)1099

 こり偈が第4章の949でも登場する偈です。
★「それが、過去にあるなら過去の記憶を干上がらせなさい」。悩みや苦しみとは、執着のことです。それは先ず過去のものです。人々が悩んでいるのは、過去の記憶に起因しています。仕事で悩む、異性で悩む、家族のことで悩む、すべて過去の経験や知識の記憶を引きずっているということです。過去の記憶に湿った感情が含まれていて、終わっていないのです。そのような有りもしない過去の記憶を完全にスルメイカのように乾燥させなさいという意味です。完全に乾燥するとそれは、ただの記憶や思い出であって、悪業にはなりません。
★「未来はあってはなりません」。未来はありません。ありのままに見たら、真実在は「今ここ」しかあり得ません。
★「今ここも収め取らない」。今ここで、気づきある者、冥想者・修行者は執着を捨てます。「音・音・音」「感覚・感覚・感覚」「思い出している・思い出している…」と、気づきのあるものは、感受ですべてを終わらせることが可能です。この「今ここで収め取らない」ことが、ヴィパッサナー冥想の真髄であって、誰でもが触れることのできる唯一の扉です。


「婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)について、貪求〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は見い出されません―― それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが」〔と〕。ということで――(5)1100

★ここでは名色、nāmaナーマとrūpaルーパが登場します。のちに「名色分離智慧」と呼ばれて、冥想実践者の道しるべとなる言葉です。私の理解では前の偈の「今ここも収め取らない」とは、目の前にある対象に触れるとき、たとえば目の前にペットボトルがあるとして、
「ペットボトル!」としないこと、「ペットボトル」が名称であって、その名称がすでに過去なのです。冥想中に「ペットボトルがある」と言ったら冥想は終わっています。感受でとどまるとは、「見える」ていどです。仮に「ペットボトル」という名称、「カラス」という名称があらわれたら、それに迅速に気づいて、収め取らないという意味だと思います。
★「煩悩は見い出されません」上記のように、今ここの気づきのある者には、あらたな悪業、悪感情もそれらの習慣力による苦しみも存在しません。「今ここ」を制する者は、もう二度と母体に宿ることはなく、そこが無生の涅槃です。

 五戒も守れない凡俗の私の解説ですが、どうぞ参考ていどにしてください。




1098“Kāmesu vinaya gedhaṃ, 欲望に対する貪りを律せよ
(jatukaṇṇīti bhagavā)    ジャトゥカンニさんよと世尊は答えた
Nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;  出離を幸福と見よ
Uggahītaṃ nirattaṃ vā,    執着するものも、捨てるものも、あるいわ
Mā te vijjittha kiñcanaṃ.   何ものもあなたにあってはならない

Yaṃ pubbe taṃ visosehi,  それが過去にあるなら、それを干上がらせなさい
pacchā te māhu kiñcanaṃ;   未来はあなたにとって何もありません
Majjhe ce no gahessasi,    もし、その中間も取らないなら
upasanto carissasi. 1099    静寂になるでしょう。
※1099(3)=949自己の棒の経


“Sabbaso nāmarūpasmiṃ,  「すべての名称と形に対する
Vītagedhassa brāhmaṇa;   貪りを離れた バラモンよ
Āsavāssa na vijjanti,    煩悩は存在しない
yehi maccuvasaṃ vaje”ti. 死魔の支配へ行き着く」と


ボトル
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気づきの冥想と念仏

 気づきの冥想と念仏
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 一般的に宗教の世界では、信仰や信心が大切だと言われています。「信じる者は救われる」と言いますし、浄土教の世界でも「信」という言葉が重要な意味を持っています。
 ブッダの教えと、大乗仏教の信仰はどう繋がっているのでしょうか? 「専修念仏」や「絶対他力」の世界は、どのようなこころの状態のときにブッダの教えと矛盾がないのでしょうか?

 法然が専修念仏の教えを広めた鎌倉時代は、文字を読み書きできて、仏道を学べる人は至極少数の限られた人でした。多くの民衆は、食べること、生存することで精一杯で、文字の読み書きや学問、余暇を楽しむこともままならなかったと想像できます。そのうえ度重なる飢饉や疫病で、生苦をありありと体感していた多くの人々はこころの拠所を求めていました。しかし、残念ながらそのような民衆に開かれた仏教、救いの道は存在していませんでした。

 そのような下界世間の様子を知っていた法然は叡山で、人々が救われる道を求道していました。しかし、10代で仏門に入ったにもかかわらず、40代になってもそのような道を見出すことはできませんでした。タイムリミット! 法然はある意味、求道の道を捨てたと思います。最終的に叡山の元黒谷の経蔵で、善導の『一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に』この一文に出会い、学問や理論を捨てて、専修念仏の道に入られたのだと思います。

 法然の念仏は、口唱念仏であり、すべてを阿弥陀仏におまかせする他力の道です。すべてをおまかせするのだから、自分の力量は関係ありません。「阿弥陀仏にすべてをゆだねる」この一点において、自我を捨てる道です。すべておまかせですから、阿弥陀仏にお前は地獄に行けと言われても文句なしです。法然の念仏は、九品の念仏往生のなかでは、下品下生の愚鈍念仏往生の機です。学問をして修行し戒律を守って往生するのでなく、愚か者のまんまで、ただひたすら口に念仏を唱えて、あとはすべてをおまかせする念仏です。この法然の説いた専修念仏の道が民衆に受け入れられたのは、「時期相応」当然の成り行きだと思います。「すべてをおまかせする」とは、「すべてを捨てる」ことと変わらないと思います。この一点において、鎌倉時代の念仏はブッダの教えと繋がっていると私は思います。

 しかし、21世紀平成の民の私たちは、鎌倉時代の民衆とは違います。字も読めるし学問の本も腐るほどあります。この世は幸福感の追及のためにあるような錯覚が当たり前のように思えます。遣唐使になって幾多の難関を越えて求道しなくても、自宅でインターネットを使って、今ここでパーリ語原始経典から、大蔵経のすべてを複数の言語で閲覧することさえ簡単にできます。地球が丸いことも、物理的に西方極楽浄土がないことも知っています。時期相応という言葉がありますが、平成の現在では、西方極楽浄土に現におられる阿弥陀仏にすべてをおまかせする他力念仏は、私にとってはとんでもない道です。初期仏教経典で説かれた四念処経にしたがって、ヴィパッサナー冥想と慈悲の冥想をして、仏道を歩む方が容易です。

 私は念仏宗の僧侶です。念仏も唱えますし、人にも説きます。私の念仏は、「今ここですべてを捨てます」という意味です。「今ここで死を受け入れる」という宣言です。できるかできないかは問題ではありません。それが私の生き方なのだという意味で、「捨てます」「死にます」と念じます。本山で教えてもらった念仏ではありませんが、私の念仏は私の中で、ブッダの教えと戦いませんし、矛盾もありません。私にとって念仏は死を隨念することです。しかし、別時の念仏は唱えません。別時の念仏より、坐って別時の気づきの冥想をした方が、こころが静まり本当にこころの静寂や死(寂滅)に近づけると実感するからです。

 私は「強い信仰の世界に入ってしまうと輪廻する」と思います。たとえ信仰によって人に危害を与えず、穏やかにこの世を暮らしたとしても、信仰は一つの見解を正しいとする道なので、信仰には自我が入ります。
 信仰とは、それが人の考えであれ、自分の考えであれ、そのことを正しいとして検べ検証することを放棄する、観念の固定だと思います。柔軟さがなくなってしまいます。観察して証明できないものに対しては、「信じる」か「信じない」かの二者択一になり、いったん信じることを受け入れると、信仰して生きるしか道がなくなります。議論したり科学的に検べて話し合う道も途絶えます。信仰に入ってしまうと、智慧の開発は滞り、こころに鍵がかかってしまいます。

7.8 サーリプッタ長老の事例
97. 何かを信じることなく、かつまた、作られざるもの(涅槃)について知あり、
しかして、輪廻の鎖を断ち切った、その人は、造悪の機会を打ち砕き、
自利の願望を吐き捨てた者。 彼は、まさに、最上の人である。

Assaddho akataññū ca, 信じることがなく、無為を知った
Sandhicchedo ca yo naro; 輪廻の鎖を断ち切った、その人は
Hatāvakāso vantāso, 悪の機会を失い 欲を捨てた者
sa ve uttamaporiso.  彼は実に、最上の人である。

 一偈目の ”Assaddho akataññū”がカギです。Saddha が「信」で否定のaがあるので、「信なき」「信じない」「信仰しない」という意味です。次のkata は「為す」「為された」に否定のaがついて、「無為」とか「つくられざるもの」つまり、涅槃のことです。
「信じることなく、つくられていないものを知る」、見解や信念、信仰、信条はつくられたもの、有為の世界の産物です。そもそも、仏教はすべての人間の考えた宗教を超えた、涅槃の世界へ誘う、超越の道であることが、最初のスタート地点なのだと思います。
 簡単に考えて、すべてを捨てる道を進むと、ブッダの教えから外れることがないと思うのです。

※如蓮華不着水 冥想者はハスの葉のように五感に触れるものに反応して感情(煩悩)をつくりません。気づきの冥想をしたら誰でも体験できますよ!

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京都黄檗道場2018年6月3日7名 参加して 吉水秀樹


テーマ『善いこと、悪いこと・二項対立からの解脱』
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 ほんとうにあるのは、執着だけで無執着があるわけではありません。真実、私たちは怒りっぽくて暴力的です。そこで非暴力という理想をつくり、そこに逃避しようとします。
 私たちのこころは執着することで苦しみを味わっています。そして、その反動から無執着を考え出します。無執着を考え出した途端に、実は他の何かに執着しています。私たちが無意識的にしているこの逃避は、執着できそうな他の何かを見つけることです。それが神になったり信仰になったり、場合によったら冥想になったりしています。

「執着を捨てよ」ということの真相はどうなっているのでしょうか?
 無執着のこころを育てようとすることは愚かなことです。私たちにあるのは愚かさだけであって、賢さがあるわけではありません。この真理はブッダが法句経に説かれています。

『自分の愚かさを思い知る、その愚か者は、彼のその観察によって、まさしく賢者でさえある。しかし、自分を賢者と考える愚か者は、彼はまさに「愚か者」と呼ばれる。』Dhamma pada63

 真なきものについて真と思い、さらに、真あるものについて真なきと見る者たち、誤った見解を持つ者たち、彼らは真に至らない。しかし、真を真と知って、さらには、真なきものを真なきものと見る者たち、正しい思惟をする者たちは、彼らは真に至る。
 罪過なきものについて罪過と思い、さらに、罪過あるものについて罪過なきと見る者たち、誤った見解を持ちながら、迷える者は悪趣におもむく。しかし、罪過を罪過と知って、さらには、罪過なきものを罪過なきものと見る者たち、正しい見解をもつ者たちは、彼らは善趣におもむく。Dhamma pada318-9

 さて、テーマは『善悪』「善いこと、悪いこと」の問題にかかわってきます。そもそも善悪があるのでしょうか? 
「悪いことをしてもかまいません」と言っているのではありません。最初に二項対立の世界から脱却することが肝心です。善と悪、美と醜、執着と無執着、ありのままを見る、正見とはこのことではないでしょうか?
  
 ある参加者が、「それでも善悪はあるんじゃないの…、人の物を盗むことは悪いことで、困っている人を助けることは善いことではないのですか?」と言いました。
「人の物を盗むこと」は「人の物を盗む」ということです。「人に親切にすること」は「人に親切にする」ことです。これらの行為自体に善悪があるわけではありません。
「人のものを盗む」ことは気持ちが悪いとか、「人に親切にする」ことは気持がいいの方が真実に近いと思います。
「私は善いことをします。悪いことをしません。」より、「私は気持のいいことはしますが、気持ちの悪いことはしません。」の方が正直な人なのだと思います。
 善いことする人は、戦争を善いことしてやってしまう危険があります。二項対立をつくっている善悪の世界は人間の思考の世界です。これがすべての元凶です。
 人間のいない世界にはそもそも善悪がありません。肉食動物が草食動物を殺して食べてもそれは悪ではないと思います。お腹が満たされたら彼らは殺し合いません。しかし、ライオンには殺されるものの苦しみは理解できるかも知れません。しかし、生存欲と渇愛があるので終わることはありません。
 そもそも、この世は欲界であって、私たちは肉体のある生命であり、生き残ることがプログラムされていることを知るべきです。このプログラムの条件づけを観察して、すべての条件づけから自由になることが仏教の本題だと思います。それはこの世の覇者になることではなくて、この世を超越する道だと思います。

  善と悪
 善悪があるとしても、悪の反対が善ではありません。特に「善」は超越を意味しています。悪の対象としてある善はやはり悪です。
七仏通誡偈もブッダの言葉に忠実に訳せば、
「もろもろの悪いことをしない、こころを浄らかにする、そうすると善に至る、これがもろもろのブッダの教えです」となり、悪が複数形で諸悪なのに対して、善は単数形なのです。
 だから、実践的にはもろもろの悪いことをしないことと、冥想でこころを浄らかにすることが肝心です。

『特定の何かを想い描かず、偏重せず、智慧ある者は「これこそ清浄である」と説かない。
執着を捨てて、世においてどこにも願望をつくらない。
 執着されたものを、あるがままに知って、あるいはあるがまま見て、この世の善悪を超えゆく修行者、彼には執着が存在しない。彼は欲の対象を貪るものでもなく、離貪の思いに染まったものでもない。彼にはこの世において、「これこそ最高である」と執持されたものが存在しない。』スッタニパータ794-5

 私は楽しみや幸福を求めてこの世に生きている愚か者です。私の幸福が私の苦しみです。私の好きな物、私の好きな事、これが私の執着であり、私の苦悩です。
 私は境内で育てているスイレンや畑で世話している野菜に執着しています。これが私の日々の楽しみであり、それを壊されることが苦しみです。
 十日ほど前に、境内に鹿がやって来て、春から毎日世話をして今にも咲きそうなスイレン50鉢、そのほとんどすべてを一晩で食べてしまいました。間もなく檀家さんや観光の人が見に来る予定だったので、大変なショックをうけました。悲しいです。「何でなん!」と叫んでも、事実は変わりません。鹿に腹が立ちました。大切にしていたものを失うと人はそのショックから、暫らく逃れることはできないと思いました。
 無慚にされたスイレンを見るのも嫌でした。いつも、人には「ありのままを見る」「今ここの事実を観る」と言っておきながら、私はそのありのままの姿を見るのも嫌でした。私に関心があり、見えるのは「あるべき姿」「こうあって欲しい」という願望だけであって、「ありのまま」や「事実」には何の関心もありませんでした。さてしかし、これが私のありのままの姿です。
 私は幸福を求めて生きています。私の楽しみが私の苦しみです。私は境内のスイレンや畑の野菜に執着しています。そして、執着が苦しみです。どんなに美しいスイレンやハスの華も、それに執着することが苦しみです。一週間ほど経過してようやく、癒すことができました。自分が愚か者であり、その愚かな姿をありのまに見ることしかそこから逃れる道はないと強く思いました。

☆執着がすべての苦しみの元であること。
☆自分が何に執着しているのかを知ること。
☆ふだん自分が楽しみにしていること、好きなことが、苦しみであること。
☆執着はその対象物ではなくて、それに対する自分の強い思いであること。
☆事実、あるがまま、無常に逆らえば、苦しむこと。
☆悩み苦しみが嫌なら、執着を見極めて、執着を捨てること。
☆執着を捨てるのは、努力奮闘することではなく、自分の愚かさをありのままに見ること。
☆悲しみが癒されるには少しの時間が要ること。
☆悲しみは怒りが姿を変えたものであること。
☆執着が消えると、楽があること。
☆生きることは苦しみであり、それを楽しんでいること。

ダンマサークル京都黄檗道場 2018年5月19日 参加後考えたこと 吉水秀樹

 ダーサ
 
気づきの冥想   ―感受と欲―

 私たちは四六時中、喜びの「感受」を「欲して」生きています。生きているのは喜びを感受するためと言っても過言ではありません。
聖者の言葉によると、「この世のすべての生命はヴェーダナー(感受)に依存している」とあります。すべての生命は感受のなすがまま、命令されるがままに行動しているという意味です。なるほど、確かに私も他の生命も幸福を求めて、苦しみを嫌って生きているように思います。
 最初に感受には三種類あると言われています。
① 好ましい感受(スカヴェーダナー) sukha-vedanā ----- 楽
② 好ましくない感受(ドゥッカヴェーダナー)dukkha-vedanā ----- 苦
③ そのどちらでもない感受 adukkhaamasukha-vedana     ----- 不苦不楽

「感受」とは、スマナサーラ長老がヴィパッサナー冥想の初心者指導で説明される原則の、『身体の感覚を感じること』です。

 さて、たとえば私はニャーナラトー師のように、たくさんの戒律を守って浄らかに生きている方を見て、正直「私には無理!」と思うことがあります。つまり、午後は食事をとらない、異性に触れない、お金に触れない、スイレンや野菜を育てたりしない、調理しない。
 それで、生きていてどこが楽しいのだろう…?と、凡俗の私と比べて見てしまうのです。多くの人も同じように思っているのではないでしょうか?
 この疑問はまるで仏典のブッダと悪魔パーピマンの対話のようです。パーピマンが「家を持ち、家族を持ち、財を持ち、豊かに暮らすことが幸福でしょう。これらなくして何が幸福でしょう」と問うのに対して、ブッダは「子も持つものは子について悩み、財を持つものは財について悩む、実に所有し執着することが苦しみである」と答えるのです。
 その凡俗の私でも冥想をはじめて十年近くなって、そのような立派な方の生き方が少しずつ理解できるようになりました。
 まず、彼らに喜びがないと見るのは間違いです。そもそも、人間には喜びも幸福も必要不可欠のものです。しかし、その幸福の質が異うのだと思います。
 その糸口になるのが、感受の観察です。(四念処経の「身受心法」の「受」の観察)
ふつう私たちは、「好ましい感受」と「好ましくない感受」に気がいきます。これは当たり前の反応です。しかし、長老方の書かれた書物のどこかに、感受の観察では③の不苦不楽を如実に観察しなさいとあります。私はその感受の観察を続けたところ、私がいぜん不苦不楽と思っていた感受に、「喜び」を見出すことができるようになりました。

 昨日の朝お堂で坐っていたら、微かな香りを感受しました。お堂ですからお香の香りはするのですが、その香りはお香のものではありませんでした。もっと繊細でスッキリした甘みのある生の香りでした。私は熱帯スイレンの香りではないか? と思いました。しかし、まだ熱帯スイレンは咲いていないはずなので、不思議に思いました。微かな香りで次の瞬間には消えていたので、何かの誤覚だったのだろうと坐り直しました。すると次の瞬間にもう一度おなじ香りを感受しました。そのとき私は今さっき熱帯スイレンの花が開いたのだと理解しました。これは日常では絶対にあり得ない感受です。日常ではこの感受は不苦不楽に分類されて認識にあがることはありません。このとき確かに私のこころに「喜び」が生まれました。おそらく最近の出来事の中では一番の喜びでした。このような繊細な喜びを感受したとき、日常の喜びは色あせてつまらないものに変化しています。味の濃いファーストフードを食べて美味しいと感じていた人が、真味淡の真実に触れたら、それらの味が毒であったと気づくことに似ています。
 日々の冥想で、感受(ヴェーダナー)を観察する。とりわけ不苦不楽の感受を明確に気づくことで、欲が制御されて、質の異う喜びを見るようになる実例の一つです。このような実践から、ニャーナラトー師のような梵行をされている方の喜びの世界を垣間見ることができると思うのです。
 話し合いの中で、「生存欲がなくなったら…」という不安を抱く発言がありました。生存欲がなくなったら、何の喜びがあるのだろうと思う心配はありません。ブッダダーサ師の言葉によると、「感受を楽しんだり、満足したりするよりも、感受を制御することの方がもっとも高いヴェーダナーであるとして獲得する」という言葉があります。そうして、感受が変容して、ヴェーダナーが要求しているよりもより高度の、ヴェーダナーを超越したもの、すなわちニッバーナ(涅槃)と呼ばれるような状態を受けとると。

 ※資料はパティパダー 【『正見』とは見解がないこと】※2017年4月号と【「悩み、苦しみ」を諦められるか】1996年4月号でした。そこから派生した話題について書きました。

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第七回初期仏教勉強会と冥想会 二〇一八年四月 感想レポート No,3  質疑応答編

  感想レポート No,3  質疑応答編   吉水秀樹
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★質疑応答より
◎“doing nothing”は逃げることではない
 ヘイトスピーチはじめ、悪意ある行為や、この世では目に余る言動に出くわす場合もあります。そのようなときには、何か行動を起こすべきなのか? といったテーマの質問がありました。そのテーマから発展して、私は自分の経験からそのような場合でも、けっきょく”doing nothing”「なにもしない」ことが最善の得策だと思い、そのことについてニャーナラトー師に尋ねました。師はまったく同意されて、そのような場合でも最初にdoing nothingという姿勢をとることは、こころに最大限のスペースを持ち、悩み苦しみ憤りを受け入れことであり、「正しい」あるいわ「間違っている」という、相対性から離れ一切の制限を離れた問題解決に繋がる道であるだろうと説かれました。「なにもしない」ことは、逃げることではなく、具体的な問題解決の場面でも最も有効でポジティブな姿勢だと思いました。

◎子育て親子関係での悩みについて
 この世には親子関係の悩みを抱えている人も少なくありません。お母さんが子どものことで悩んでおられる事例がありました。具体的な解決策の話ではありませんが、私たちは冥想することと、そのような現実の悩みとの関係を師の言葉から学ぶことができました。上手く言えませんが、「あるべき姿」や「理想」から離れる時間は大切で、坐ることでそれらから離れる。すべてから離れる。感情が出てきても、そのままにして離れる。それ以上に患部をいじらないで、離れて自分への慈しみのようなこころもちで見守る。
師はしばし沈黙されて「だいじょうぶだ…」問題はあるのだけど、「だいじょうぶだ」と全部をひっくるめて、「あるがままでよしと見る」… ここでも”doing nothing”に秘められた慈悲の力を感じました。

◎なぜ人は、何もしないではいられないのか?
 いろいろな問題を抱えていても、問題が無くても、人はじっとしていられません。冥想でこころの静けさを得ても、なお何かをしようとします。冥想実践者なら誰もが突き当たる問題ですが、冥想で普段よりこころが穏やかになり、事象の変化を観察できるようになっても、気づいたら「何かをしています」”doing nothing”とこころに念じても、そのdoing nothingをしようとします。この、「何にもしない」ことをしようとする衝動は何でしょうか?
 そもそも渇愛taṇhā とは「欲しがること」です。私たちのこころの中にはいつでも「欲しい」「欲しい」という欲しがるエネルギーがあります。このエネルギーには終わりがありません。冥想でこころの静寂を得たとしても、次に何かが「欲しくなる」わけです。
 上手く言えませんが、”doing nothing”に近づくことは、「死」にも近いです。そこで、こころは死にたくないので、次の対象を探し生き残ろうとします。慌てずに、そういうものだと、観察するより他に道はないのかも知れません。これは「有」に対する執着だと言われています。
  ※三種類の渇愛
☆愛欲 カーマタンハー kâmataṇhâ 
物を欲しがる、五感に刺激が欲しい。食べたい、遊びたい学びたい
★有愛 バワタンハー bhavataṇhâ 生きていたい、死にたくない
☆無有愛 ヴィバワタンハー vibhavataṇhâ 嫌いなものを排除、破壊したい

  ◎現象の生起を観察する
 質疑の流れから、私が一時間ほど坐る冥想をした後、静かに眼を開けると即座にイスとかペットボトルという、分別妄想の命名が始まり、渇愛のエネルギーでこころの回転が衝動的にはじまるのかなぁ…という意味のことを発言しました。そのとき師は、それは因縁の生起を観察しているのではないですか? という意味の言葉をかけて下さいました。私はなるほどと思いました。私は因果法則で自然に起こることまで、否定してしまう傾向にあると気づきました。現象の生起を観察できたら、次の瞬間にそれが自分の分別妄想であることに気づき、消滅の観察が起きて、それで輪廻の鎖が解かれるのだなと思いました。

 ◎真にあるもの
 アビダンマの解説書に「真にあるものは」四つである、その四つとは。
☆rūpa =色 物質 
☆citta =心 こころ
☆cetasika=心所 こころに溶けたもの 
★nibbāna =涅槃。―であるとあります。私はこのことは世界のことで、一方人間を仏教的に言えば、五蘊=色受想行識であり、五蘊とは、
☆色=rūpa 物質・体
☆受=vedanā 感覚
☆想=saññā 知識・記憶・概念
☆行=saṇkhāra 感情・~したい
☆識=viññāna 知ること・考えること・思考。―であると考えていました。しかし、これは間違っていました。涅槃は外して考えますが、この二つは分け方が違うだけで、同じものを言っているのだと理解できました。つまり、私=世界=私の経験です。世界とは私のことで、私とは世界のことです。「色」「心」「心所」と、五蘊の色受想行識はどちらも世界のことのようです。

色  = 色  声  香  味  触  法  = 色
               +
心  = 眼  耳  鼻  舌  身  意  → 識
               ↓
心所 = 眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識 → 受想行

 対象である「色」と、六根の眼耳鼻舌身意=「識」とがぶつかって、「心所」が生まれて、はじめて世界があらわれます。真にあるものはこの三つと涅槃だけです。以上は、もう少し考察が必要で間違っているかも知れませんが、今の段階の私の理解です。

  
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 ◎冥想の境地と、立ち位置の異い
 日頃の冥想について尋ねました。私は毎日お堂で一時間は坐る冥想をするのですが、坐った時は毎日こころが混濁しています。確かに一時間坐ればこころは落ち着き、感覚は感覚として、妄想は妄想として観察できるようになります。しかし、翌朝になればまた、同じようにこころは混濁しています。坐って昨日到達した静けさから始められれば良いのに、毎日坐った時はこころが混濁しています。これは何とかならないものでしょうか? この質問を問うて師の表情を見た瞬間に「しまった! 愚かなことを聞いてしまった」と思いました。師は苦笑いするかのように、そんなものでしょう…と、毎日お風呂に入って身体を洗います。昨日洗ったから今日は大丈夫ということもないようです。もちろん、こころが変わることもあるでしょうが…。
 もう一つの回答は、こころが混濁している時も、こころが落ち着いている時も、どっちもよしという見方です。私たちはこころの平安や幸福を求めて生きています。そして、葛藤や混乱より前者のほうがそれは楽で、それを好みます。しかし、アチャン・チャーも、ニャーナラトー師もこのことは、すでに冥想者の大切な理として仰っていました。
「ラーカータオカン」=平和も非平和もどちらも当価値、同じであるこという見方です。坐った直後にこころが混濁していても、それに気づけば前のめりになった身体をスッと元に戻して、正しい立ち位置に戻ることは可能です。その立ち位置に戻ることが、肝心要であり、その一見チョットしたこの「ふっと」自分に帰ることが決定的な異いです。
 冥想の境地を求めるのではなく、正しい立ち位置に帰ること、これこそが師の説かれる冥想の本質だと思い返すことができました。考えてみれば、冥想の境地とはそれがどんなに素晴らしくても、既知であり、自分の経験であり、過去のものです。しかし、師が説かれる「立ち位置」は、今ここにあり、あるがままであり、蓄積して経験できる質のものではありません。世界の異いなのだとあらためて理解しました。

  ◎実践冥想会を終えて
 ニャーナラトー師の指導による実践冥想会は初めての試みでした。一日言葉から離れる。テクニックからも離れる。ゆったりとした時間の中で師と仲間と共に過ごすことができました。師の冥想指導に関しては、言うことがありません。言葉の無い世界なので説明もできません。人生のわずかな時間であっても、言葉を使わずに師とこころをシンクロさせて呼吸することがニャーナラトー師の実践冥想会の醍醐味だと思います。
私は主催者の立場にあったので、考えることも多くその日はただ皆さんと一緒に流れていました。びっくりしたのは明くる朝の冥想でした。驚くほど穏やかな冥想でした。私が理解したのは、妄想が始まり前のめりになった身体に気づいたら、ふっと戻すこと。ただそれだけです。リアクションも無く、ただふっと戻す。その場所は決して求めている冥想の境地とはかけ離れた、関西弁で言うと「しょうもない」場所です。なんにもないのですから…。「しょうもない」は標準語で言うと「仕方ない」「どうしようもない」「為すすべもない」という意味かも知れません。つまり、”doing nothing”です。それは、釣り針のない釣りなので、「しょうもない」のでしょうか?

 冥想会の最後に師から講話がありました。せっかく冥想をしたのだから、この功徳を廻向しましょうということでした。なかなかピッタリの廻向文がなかったので、師に読んでもらいました。冥想会に限らず日頃冥想をしても、「あー今日の冥想は今一だった」とか、「今日の冥想はよかった」とか、私事にしてしまい、せっかくの冥想を自分の尺度で評価して台無しにしてしまうこともあるかも知れません。冥想に限らず、善行為をした時には、すかさずその場で廻向をして、その功徳を自分の域に留めることなく、すべての生きとし生けるものへの幸福を念じて廻向することが大切です。善行為を修したら即座にその場で廻向して、自分のものにしないことが仏教者の基本だと、あらためて思慮しました。
 
 後日作成した冥想会用の廻向文です。

 廻向文
この功徳を先人、先祖、恩師をはじめ、すべての生きとし生けるものに廻向いたします。
願わくは、この功徳によって、すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。
すべての生きとし生けるものが彼岸へと導かれますように。