冥想と空間 Ⅱ

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 ★絶対空間はあるのか? 
 自分で考えてみてください。私たち人間は基本的に絶対空間があると考えて生きています。毎日同じ住所に帰って来て寝るその場所は絶対にあると思っています。確かに地球上の日本の家屋の位置は毎日変わったりしません。しかし、これは地球という惑星の特殊な重力場で起きている希なできごとです。本当は私たちが今いるこの場所はたった1秒間に、地球の自転で約500m、公転で約27㎞の移動をしています。ジェットコースターの中に家を建てているような状態なのですが、このような実感は全くありません。認識できないからです。しかも、アインシュタインの発見以後になって、その宇宙空間の時空、時間も空間も歪んでいることが証明されています。
 最もブッダは2500年も前に、「無常」を観察して既にこのような事実を了知しておられたようです。つまり、空間はあったとしてもそれは変化しているもので、固定してあると見ている私たちの見ている世界は幻覚なのです。つくられたものです。
“sabbe saṅkhārā aniccā” 「すべての認識できるものは変化している」
とはそのような意味で、空間が幻覚であるという意味が含まれています。

 私たちの思考の世界ははじめから幻想でつくられています。人間の幾何学の世界では、点や直線を認めています。1+1=2も認めています。
点は面積がないのですが「・」認識する点には面積があります。点と点を結ぶ線を直線と呼んで、「 ―― 」にも面積がないのですが認識している限り面積があります。そもそも時空が歪んでいるので直線は存在しません。「1+1」と「2」は見ただけで違うのに同じと認識します。つまり、私たちが世界と呼んでいるものは、人間の妄想で組み立てている世界です。

“sabbe dhammā anattā”「すべての認識対象には実体がない」
とブッダが語っているのはそのことです。

 ヴィパッサナー冥想では、思考を離れてこれらの真相を観察します。過去の記憶や、時間や思考を捨てることが、ヴィパッサナー冥想での思考の要らない直観です。
 まず、見ている世界、空間を疑って見てください。

 ところで、私は何時もベランダで洗濯物を干します。そのベランダの空間を認識しているのですが、昨日冥想でそのベランダの空間を思い出したとき、物干しの竿が何本あるのかわかりませんでした。毎日見ていて、さっき干したのにわかりません。また、その竿がどのように天井から吊るされているのか全く記憶にありませんでした。見ている世界が幻想なのは本当です。世界が無いのではなく、私が勝手に作った世界を見ているだけです。

 アビダンマでは、実際に実在するものは、「こころ・心所・色(エネルギー)・涅槃」の四つだと説かれています。まだ、私にわからない世界ですが検べてみたいです。

銀河
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冥想と空間

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 ★当たり前にとしているものに疑問をもつ
 日頃、当たり前として感じている空間について疑念が生まれて、空間について考察しました。
 まず、物理的な空間はあります。今朝お堂で、三人で冥想していました。私の左に一人、右に一人が坐っています。このような空間は物理的な空間として一応あるとします。問題は心理的な空間です。簡単に言うと、眼を閉じた時に空間はどうなっているのか? という問いかけです。そんなものあるに決まっていると考える人には理解できないと思います。
 眼を閉じて、手の感覚を感じたときに、左手、右手と感じて左右の距離を感じ、空間が現れます。さて、これは妄想なのか実相なのか? 最初は検べ方がわかりませんでした。何か他の思考が始まったとき、例えば「昼ご飯は何にしようか?」と、この瞬間は思考の世界にいるので空間はありません。このことを理解できる人は少ないかも知れません。認識しない限り、認識の対象が現れないのは、本当は当たり前のことです。眼を閉じたら少なくとも私の前に居るであろう人は認識できません。記憶として「私の前に人がいる」という思考は生じても、それは少し前の過去の記憶で、実相ではありません。

 ★音を聞いた瞬間に空間が生まれる(対象に触れて感覚が現れた瞬間)
 冥想中に灯油販売の車が「たき火歌」の音楽を鳴らして移動していました。寺の直ぐ下の道を通過して、音源が移動している様子を感じました。このとき、空間が現れます。私はなくて、音がダイナミックに移動しています。お腹の膨らみを観察していたら、膨らみの動きの感覚位置が前後にゆっくり移動しています。このとき、空間が現れます。空間が現れたときに私はありません。暖かい手袋をはめて冥想をしていました。最初手袋が存在していると思っていました。一時間冥想をして、身体がピタリとも動かなくなったとき、手袋は見つかりませんでした。手の感覚はあるのですが、手が微動もしないので手袋に触れる感覚がありません。このとき手袋は見つかりませんでした。(手袋があるというのは妄想思考です)

 ★日常の空間は妄想であった
「音」(sound)がとても大切です。耳を傾けるとは、人の話を聞くのではなく、言葉の音を聞くことです。そのときはじめて、音は空間を持っていて、音を聞くためには空間がなければなりません。言われていることを何時も自分の偏見や快不快の条件づけられた思考習慣で翻訳しながら聞いているなら、そのときその人はまったく耳を傾けてはいません。実はそのとき空間も無いのです。日常の空間が幻です。手を切ったりぶつかったりするのはその現れです。日常は明確に見たり聞いたりせずに、「あったはずという妄想の空間」で暮らしているのが真相のようです。冥想で直観した私のない(言葉のない)世界が実相空間だと言えます。
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『冥想の秘訣』 ―Flowering フラワリング―

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 ブッダの気づきの冥想では、気づく・ありのまま見る・観察する・実況中継する・ラベリングする・感覚を感じる…などの実践内容を現す言葉があり。冥想実践者が「実況中継をするしない」などと、迷うことが時々あります。私はこれらの言葉は、けっきょく全部同じ内容だと考えています。
 パーリ語に”passati” パッサティという動詞があり、「見ること」です。”vi”ヴィという接頭語は、「ありのまま・明瞭に・客観的に」という意味です。「ヴィパッサナー冥想」とは、「ありのままに見る冥想」と理解できます。

 さらに、知識が増えてややこしいかも知れませんが、私は ”Flowering”「フラワリング」という言葉が好きです。ある聖者の言葉です。日本語で言うと「開花」でしょう。
 冥想中にどんな感覚や感情が現れても、それらに価値を入れたり、評価しないで、ただ観察することは冥想の基本です。しかし、ネガティブな感情、怒りや欲望、嫉妬などの感情に気づくと、それらを悪いものとしてマイナスの価値を入れる習慣は中々払しょくし難いものです。(ポジティブ反応・反対も)結果それは火に油を注ぐことになります。消えるどころか増殖します。気づいていないかも知れませんが、この時すでに二項対立の世界が始まっています。ネガティブ・ポジティブと、思考によって二項に分けたのは誰でしょうか?

 そのような自分の思考ループに少しでも気づいた人は、フラワリングという言葉を理解すると役立つと私は思います。フラワリングはどんな小さな感情も、嫌な感情も尊重することです。それがありのままの自分であると認めることです。そうすると、どんな感情も自然に花が咲いて枯れて散って行くように消えていきます。感情に何かしらの価値入れ、評価を下すと、枯れない造花のように痕跡を残してしまいます。しかし、なんら自分から手を加えないと、どんな感情も自然法則に縁って開花して、枯れて消えて行きます。私がすることは、ただブッダのまなざしで優しく、それらを見るだけです。自然界の植物が成長し、やがて花を咲かせ、そうして、因果法則で自然に枯れて行くさまを、表現した素敵な言葉だと思います。
 
※今朝、冥想して思ったのですが、感情は自分で意識的につくった炎なので、枯れて消えていくのには時間が必要です。この時間とは智慧と勇気かも知れません。

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ヴィパッサナー冥想 ―自己知―


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 新しい言葉を憶えても仕方ありませんが、ヴィパッサナー冥想の本質が「自己知」です。もしあらゆる文化も宗教もない世界に生まれて、一から自分独りで真理を発見することに努めるなら、人は自分を知ること、自己知から始めなければなりません。自己知とは、自分の思考のプロセスを観察することです。ヴィパッサナー冥想で、今ここで過去の知識や記憶に依らないで、明確に観察するとはそのことです。思考は必要ありません。必要なのは「ありのままに見ること」「観察」「嘘の無い謙虚さ」です。それをヴィパッサナーと呼んでいます。
 自己知がないと、多くの人が普通にしているように対象に触れた経験が思考を生み錯覚や妄想が必然的に起こります。自己知があると経験しても、感情などの残留物を残さずこころが汚れることがありません。自己知とは、自分がどのように人に接しているのか? どのように人を見ているのか? 何故動こうとするのか? などを一瞬ごとに明確に観察することです。
この冥想を続けていると、私が「運動」であることが発見されます。「私」という固定した物があるのではなく、私は運動です。その運動を観察します。何に触れても起こるのは運動です。その運動こそが自分の正体です。人の言葉を聞いて腹が立って不愉快になったら、「怒り」という運動が私です。それ以外には何もありません。対象に触れて慈しみのこころがあらわれて、こころが豊かになったらそれが私です。そのときもそれ以外は何もありません。
 自分を知るための手段はありません。冥想に方法は無いのです。手段を求めることが、何かの結果を得たいという運動です。多くの人がそれを待ち望んでいます。冥想の名において権威に服従していませんか? 自分に何かしらの結果を与えてくれる、聖者や導師の金魚の糞のように振る舞う人になってはいけません。私が長老を敬礼するのはそれを私に常に教えてくださるからです。人は基本的に自己知には関心がありません。多くの人が関心があるのは、結果を与えてくれる方法であり権威です。
 自分自身を知る、自己知がないかぎり、あなたが何をしても冥想にはなりません。自己知とは一瞬一瞬の自分という精神の運動を知ることです。禅定を得ることや真我を悟ることではありません。
自己知がなければ、冥想と実生活の乖離が起こり、現実逃避にすら発展します。自己知を妨げているものは、自分が大切に育て上げてきた思考習慣であり、対象に触れて意識的・無意識的に起こる条件づけされた運動です。しかし、安心してその運動を観察することでその運動(私)から自由になることが可能です。何も求めていないときにそれは起こります。

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パーリ語勉強会 2017年12月22日(金)黄檗道場

ドータカ

スッタニパータ第五章【彼岸に至る道】 六『ドータカ学徒の問い』

『ドータカ学徒の問い』は、わずか八偈の経です。ドータカの「もろもろの疑惑から解き放ってください」という熱情のある問いに対して、ブッダが答えます。
ブッダの返答の中核は、1064偈だと思います。正田先生の訳で考察します。

 1064.(1071)
〔世尊は答えた〕「わたしは、〔あなたを、諸々の疑惑から〕解き放つことはできません。ドータカさん、誰であれ世における疑惑ある者を、〔諸々の疑惑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕認知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」〔と〕。

 ブッダがドータカの「疑惑・懐疑・葛藤…、この世のすべての疑惑から自身を解き放つにはどうしたらよいのか」という、切実な質問に対して答えます。
 ブッダの返答の最初の一言は、「わたしはあなたを解き放つことはできません」です。みなさもこの言葉をブッダの言葉として、目を覚まして読んで下さい。「誰であれ、疑惑ある者を解き放つことはできない」とブッダは語っています。

 もし、私が人から、そのように頼まれたとしても、最初に人の疑惑を解き放つことはできないと理解するべきです。

 次のブッダの言葉は、他の先生の訳では誤訳に思います。真理の捉え方が甘いからです。正田先生の訳では要約すると、
「真理を常に今ここで、気づくことで、あなたはあなた自身で、この暴流を超えなさい」となります。他の先生の訳だと「真理という実体があって、それを覚って解脱しなさい」というようなニュアンスになってしまいます。
 短い経ですが、とっても大切な真実が語られています。

“ Nāhaṃ   sahissāmi     pamocanāya,
ない・私は  得(ない)   解脱させ

kathaṃkathiṃ  dhotaka   kañci   loke;
疑惑を  ドーカタよ  いかなる 世間における

Dhammañca   seṭṭhaṃ   abhijānamāno,
真理を・しかし 最上の  了知するならば

evaṃ  tuvaṃ  oghamimaṃ   taresi ”.
このように あなたは 激流を 渡るだろう