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『気づき冥想』 ―不善心所に気づくこと―

欲のグループ

不善心所4

 初期仏教に出会い一日の中心が冥想になって10年近くの年月が過ぎました。自画自賛ですが、よく冥想に励みこころが成長したと喜んでいます。世界の見え方が変わってきて、安穏に暮らしています。先日から不善心所の話をしましたが、不善心所が生まれると同時に気づきが起きて、悪循環の流転がその場で枯渇するのが楽に生きる秘訣だと思います。
 不善心所の生起に気づくことが四聖諦から見ても、冥想実践者の道しるべのように思います。具体的に変化してきた見え方の話しをしたいと思います。

★「比べる・計る」
 AとBを比べるといった単純なものから、自分や他者を評価して計ること、優劣・損得など…、日常的にしている「計る」ことは、「生きる」と言い換えてもよいほど無自覚にしています。これが「慢」mānaマーナであり、感情(煩悩)であり、「欲」の仲間の不善心所です。簡単に止められませんが気づくことで、そこから「怒り」のグループ、嫌うこと嫉妬や妬みへ流転することがなくなります。
 実践的にも、「怒り」より、「無智」と「欲」の気づきが肝心です。怒りは、無智と欲を野放しにした結果です。

★「選ぶ・選択」
 選べることが幸福で自由だと思っていましたが、「選ぶ」という不善心所はありませんが、「選ぶ」ことは葛藤であり、葛藤は放置すると憂いや悩みへと成長します。葛藤はその場で終わらせるのが何よりです。「選ぶ」にも注意が必要です。

★美味しいものを食べる
 世俗に生きる私たちには極あたり前のことです。しかし、これは長老が説かれている「夢や希望があったら生きづらい」という欲の不善心所のあらわれです。「今日は何か美味しいものが食べたいなぁ!」と思ったら要注意です。そこから、「食べ過ぎ」や「脂っこいものを食べて気分が悪い」とか…、苦しみが起きている事実を観察することです。
「あるものを美味しく食べる」「与えられたものを美味しく食べる」としたら問題は少なくなります。「必要」と「欲」の見分けは日常的な気づき、冥想です。
 出家者が美味しい物を求めて托鉢していたら、こころの成長はありませんね。

★すべてが自分の鏡
 人であれ、物であれ、空間であれ、「ある」「いる」としている、どのような対象も自分の脳で合成していることがその場で理解されます。「ある」は私の思考世界です。「嫌いな人」をつくっているのは間違いなく私です。あなたは私、私はあなた、これは真実です。憎しみは消えて、哀れみに変容します。妬みは喜びに変わります。争いが終わります。

★苦しみの真理  
 生きていること自体が問題です。なので問題は終わりません。「生きること」「生存すること」を諦めたらその場で問題も解決します。私は冥想しているという意識があればそれが問題の根本です。気づいたら、そこにただ呼吸がある。面白いことも何もない。

 ニャーナラトー長老が説かれた、「釣り針のない釣り」という例えが絶妙です。普通の人の人生は釣り針があってこその人生です。しかし、冥想者の人生は釣り針のない釣りです。針で釣れるものはすべて不善心所のようです。海に行って釣り針のない釣りをしている自分を想像してみて下さい。何にも面白くありません。それが仏教の目指している生き方だとしたら、愕然とするのではないでしょうか。
 しかし、心配は要りません。私は未だ悟りにはほど遠いので、こころを成長させる楽しみがいっぱいあるということではないでしょうか。

大公
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『比べる』 最終 レポートまとめ

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 さて、「比べる」ことについていろいろ検べてきました。食べることが好きで欲ばりな、現実の私には少し難しいテーマでした。最初にお話したように、「比べる」ことは簡単にはやめられません。「比べる」はまだしも、「計る」は「生きる」ことと同義語のように思えるので、止められません。しかし、気づくことなら出来そうです。まずは自分が比べていることに気づくことです。

★「気づく」
★「比べる」を理解する。
これが最初のステップだと思います。

 そうして、「比べない」「計らない」に至るには、その思考パターンを見ることです。ここで、もし比べることで幸福になっているなら問題はないのですが、比べることで不幸になっている事実をつきとめたら、止めることができます。

★なぜ比べるのか、思考パターンを知る。
★比べることで不幸になっている例を観察する。

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 スマナサーラ長老は、「比べる」のは、「自分に自信がないからです。」と明確に根本仏教講義で説かれています。この言葉も簡単ですが、とても奥が深いです。自分に自信がないから計るのです。
 お弁当の例で言う、目の前の自分に与えられたお弁当を安楽に食べている人は、他の人の弁当と自分の弁当を比べたりしません。それが高価であるとか安物だとか、計ることもしません。その弁当の値打ちを計るのは、自分に自信がないからです。
 お母さんや奥さんがこころをこめて作ってくれたお弁当を、他の人の弁当と比べたり、お金に換算したりして計ることが愚かであることは誰でもわかるでしょう。
「計る」「比べる」のは、「自分に自信がないから」と仰った長老の言葉は興味深いです。

◎与えられていない物を欲しがらない。
 他の人の物を欲しがらない。
 選ばない。
 欲ばらない。
 少欲知足で安楽に生きる。

◎「比べる」は、不善心所です。「欲」のグループに属していることも覚えておくといいです。

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★質問: あなたが今までに何万回としてきた、食事で忘れられない食事はありますか? 一番、美味しいと感じたのはどんな食事でしたか?

 私はこの質問に対して、昨日知恩院の修行道場で食べた丼飯のお話をしました。もう一つ忘れられない食事があります。
 40代の終りに、盲腸の発見が遅れて腹膜炎になりました。絶食して胃の中を空にして全身麻酔の手術を受けました。二日間は何も食べずに点滴で寝ていました。二日後の午後にようやく食事の許可が出ました。その時、病院の昼食は既に終わっていました。私は歩く元気がないほどお腹が減っていました。 ペシャンコの身体でヨレヨレになって一階の売店に食べ物を求めて歩きました。店に梅干しのオニギリが売っていたので私はそれを買いました。病室に帰って病院のお茶でそのオニギリを食べたのですが、あれほど美味しく感じた食べ物は未だに見つかりません。ほんとうに空腹だったので、一粒一粒の米の形や甘さまで感じられるくらいに味わいました。梅干しを食べたときは、その甘みと酸味の刺激はこの世のものと思えないほどの醍醐味でした。病院の薄いお茶もその苦味や香りがそのままに美味しかったです。食べながら身体に力が生まれていることも感じられました。

 私が体験した忘れられない食事は、いずれも決してご馳走ではありません。また、比べたり、選んだりする、猶予はなく、不平不満の出る隙間はどこにもありません。
 今ここから離れることなく、思考や妄想もない状態で、ただ食べていたのです。

 選べることが自由と勘違いしている人が多いのですが、選ぶことは葛藤であり、憂い悩み苦しみの元でもあります。

 「比べる」ことの学びは、「知足」というテーマに繋がってきました。以前お話した、「豊かさ」の勘違いがからんできます。物と心の両面が揃ってこそ豊かという言葉に、まったを掛けられたのもスマナサーラ長老でした。(12月10日の日記)
 
 豊かさも、「すべてはこころを元とする」の例外ではないようです。「知足」は、そこにあるもので満足し、不平不満や争いのないことです。

歩く冥想と空間

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 今朝は、封筒をポストに投函するために、いつもと違ったコースを歩きました。住宅地の地面を見て歩いているときに、ヘリコプターの音が聞こえました。私は右側の上空にヘリコプターがあると認識しました。その後、そのように自分は考えていると、明確に気づきを入れました。次の瞬間、ヘリコプターの音は左上空から聞こえてきました。「アレ?」って思いました。最初に聞いた音は右側の住宅の壁に反射した音だったのです。私は面白いなと思いました。ヘリコプターという対象も、空間も、耳で感受した音から自分でつくっているのです。
高飛車な言い方ですが、このような実感、気づきは少し冥想が進んだ人にしかわからないかも知れません。対象や空間、それ自体を疑うことができるのは実は自由です。自分で認識している対象・空間を事実だと思っている人は、それに縛られているということです。自由がありません。
すべてを自分のこころで造っていると真実を見たら、それは自由であり美でもあります。ブッダの言葉を漢訳した華厳経の『一切唯心造』はこの意です。

住宅地を抜けたら里山に入ります。小川の流れの音があり、スマートな背白セキレイが水を飲んでいます。ヒヨドリは残り少ない天然の干柿をついばんでいます。この時期茶畑ではお茶の花が咲いています。咲くと言ってもまん丸なのです。見るもの、聞くものみな美しいです。

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『比べる』について  その一



 去年から、「比べる」が気になって、継続して冥想し学び検べていました。ようやく無明の闇から光が見えてきたので、私が学んだことをレポートします。

 仏教に入門して、道徳を知るようになると「嘘」や「盗み」は悪行為であって、それをしていては幸福になれないことを理解します。そこで、「嘘はつかない」「与えられていない物は盗らない」と自分の生き方を変えることができます。これはある意味簡単なことです。
 しかし、「比べる」ことは、知識の上で煩悩であると理解しても、簡単に止めることはできません。「比べる」ことを止めることは至難の業です。仏教では、「比べる」ことは、悟りの初歩段階では消えることがなく、阿羅漢になってようやく消滅するとされています。

 私が学んだ大切なことは、
◎「比べる」を知ること、理解すること、比べていることに気づくことです。「比べる」を止めることは私には未だ敵いません。しかし、気づくことはできるのです。

具体的に検べるのに、次のように分けて考えて行きました。 
① 比べるとはどういうことなのか?
② なぜ比べるのか?
③ 比べることで幸福になっているのか?
 
①「比べる」とはどういうことなのか?
「比べる」と一言でいっても中味はいろいろあります。

A.見える対象を比べる。先日頼まれてパーティで使うアボガドを買いに行きました。選ばずに買うと傷んだ物を買って後で使えない時があります。手に取って一つ一つ、見比べ、硬さを調べます。このように目前にある対象を「比べる」ことは気づくことも難しくありません。

B.見えない対象を比べる。このような表現が正しいかわかりませんが、たとえば朝に坐る冥想をしたとします。冥想が終わった後に、今日の冥想は〇〇だったと評価する。これも「比べる」ことです。おそらく過去の経験や知識と比べているのでしょう。このような例は、比べていることに気づくのも少々難しいです。目の前に対象があるわけではないし、片方は対象として存在もしません。

※そもそも、AもBもありもしない対象を「ある」として、比べているので難しいのです。

 最初に比べることは、煩悩と言いましたが、仏教ではこの「比べる」ことを『慢』まんmāna マーナと呼んでいます。その本来の意味は、「比べる」ではなく。「計る」ことです。
 私が「比べる」と題して問題にしていることは、「慢」mānaマーナという根本煩悩であり、それは、「計ること」「量ること」「比較すること」「区別すること」「分別すること」です。
 これらは普段から無意識的に当たり前としてやっていることであり、生きるためには不可欠な、良いことと思っているので厄介なのです。

Bの例など、冥想実践者でもよくやってしまう不善行為です。自分の冥想を自分で計るのは愚かな行為です。

 そもそも、アビダンマでは、不善心所が14項目あります。それが、「欲」「怒り」「無智」のグループに分けてあります。「慢」mānaマーナは、不善心所の「欲」のグループに属します。

「欲」のグループには、
① 「貪」とんlobhaローバ 「まあいい」「いい感じと受け入れる」こと

② 「見」けんdiṭṭhi デッティ 「見解そのもの」「あるとすること」「見たことは正しい」

③ 「慢」まんmānaマーナ  「計る」「比べる」
以上の三つがあります。

 二番目の「見」は「見解」のことです。間違った見解が煩悩と言っているのではなく、何か対象が「ある」とするこころの働きそのものことです。だから、この「見」、見解がすべて邪見であると「正しいとしていること」だと見破ることは、少し難しいです。
しかし、「慢」まんほど、厄介ではありません。「見」は悟りの最初の段階で消えるとされていますし、「見」に対して日常的に気づくことも、「慢」mānaマーナの克服に比べたら難しいことではありません。

悪心所



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『比べる』について  その二



②なぜ比べるのか? ③比べることで幸福になっているのか?
 
 このことを考える前に、スマナサーラ長老は、
『比べることは「ちょっとした病気」のようなものです。』と仰っていました。私たちも「ちょっとした病気」を持っていると理解されたら、その対処に良いと思います。

 比べること、計ること、区別すること、そこから優劣や損得を判断することは、簡単には止められません。その単純な理由は、比べることで、「福楽」が得られる。幸福になれる、あるいは不幸な目に遭いたくないと考えているからです。もし、比べることで不幸になると知っていたら比べないはずです。
 まず、単純な例で考えてみます。昨日たとえに出したアボガドの買い物も、美味しいものが食べられるという福楽があってのことです。
・AとBのどちらの学校に進学することで就職が有利になるか。
・今夜の食事は、外食するか家で食べるか。・どの病院を選ぶか。
このような例は単純ですが、どちらの選択が福楽を得られるか、選択に失敗して不幸な目に遭いたくないという考えがあっての「比べる」と言えます。

 次の例はどうでしょうか? 今私は、プリウスっていうトヨタの車に乗っています。もう八年目くらいになります。先日檀家さんの家に法事に出かけたら、その家に新しいハイブリット車が駐車してありました。私は何気に見て、「カッコいいなぁ…わたしも欲しいなぁ」と思いました。私の車は走行距離4万キロくらいで、故障もまったくありません。つまり、新しい車の必要は一切ないのです。以前学びましたが、「欲」というのは自分の所有している物には生じないと…、自分の所有物を欲しいとか、素敵だとか思わないのです。所有「自分の物」という煩悩、妄想は怖ろしいものです。私は自分の車と檀家さんの車を計ったわけですが、まったく幸福にはなりません。このこころの動きに気づいたので、直ぐに捨てられました。外国に旅行して、自分の慣れた車があればどれだけ便利でしょうか、自分の所有している車から得られている福楽には興味関心がないのは困ったものです。今ここに実際にある福楽が見えていないのです。

 私たちの世俗の暮らしでは、どちらに行けば美味しいものが食べられるかを計ることはこぐ普通の考えです。しかし、出家者がいて、どちらの方向に托鉢に出かけたら美味しい施食に巡り合えるかと計って托鉢に出かけたとしたら、この比丘は何時までたっても愚者のまんまで、ただの乞食に成り下がってしまいます。

  

 ああなったら幸福、こうしたら幸福という考え方は、今ここから離れた欲の世界の入口で、今ここの幸福や、「知足」という仏教の幸福観とはほど遠いです。

また、選択があること、選べることが自由だとする考えがありますが、本当にそうでしょうか?

 まず、あなた自身の「比べる」ことを疑って見ることをおすすめします。比べることで、本当に幸せになっているのでしょうか? 
 
どうやら私たちは、「比べる」「比較する」「計る」「計算」「区別」「選択」「葛藤」「判断」「評価」「拒絶」「受入」「正当化」などは得意なようですが、「ありのままを見る」ことは得意ではありません。注意深くただ見つめることはしないのです。しかし、冥想とは実にこのこと以外に何もありません。

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