講座案内

講座案内

【英知の学び交流会】

6月3日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)
内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

学びのガイド 正田大観


【みんなの仏教】

6月24日 土曜日(原則 第二土曜日)・13:30~17:00
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)
内容 ブッダの冥想を実践し参加者一同で意見交換をします。


【京都ダンマサークル】

6月17日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)
内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観


【初期仏教研究会】

6月22日 木曜日
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)


【ブッダの冥想研究会】

6月25日 日曜日13:30~17:30
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp (吉水 秀樹)
内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。


 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)
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『ブッダの冥想研究会報告』


       2017年犀の角
5月28日 安養寺庫裡にて
 参加者の一人が冥想でこころの静寂から生まれる「喜び」など、こころが空っぽという体験が乏しい…、といった質問がありました。
 私は、その方と私の実際に体験している60分の冥想体験は、それほど変わらないと思うのです。ただ、その方は言葉の世界に重きをおいおられるので、直接の体験より言葉が優先されているのではないかと思いました。
 けっきょくのところ、言葉が障害物なのは言うまでもありません。それが観察する対象の絞り込みの迅速さや、余分なエネルギーを排除して観察する気づきの純度などに関係してくると思います。
 私の場合だと、冥想に入ると普段と違って短い刹那の体験がとてつもなくデカくて、それこそが本質のように見えてきます。
 ただ音が聞こえている刹那があって、次の刹那に言葉が生まれます。そのありのままの世界と、次に自分でつくるイメージの世界の「間合」を感じます。そこで、本当にあるのは音だけなのかな? と自分の思考に疑念がおこります。昨日は「懐疑の炎」と表現した、自分の思考、自分に対する疑念のようなもので、「それはあなたが思ってることで、事実ではないですよ」というクールな自己批判です。自分の思考への価値を捨てます。この問いかけは、繰り返し繰り返し、思考が生まれる度に生まれます。これが「気づき」の本質かもしれません。
 この問いかけが大切なのであって、答えにはさほどの意味もありません。
 そうして、その繰り返しで、思考はあてにならないし、あまり価値の無いものだと、自分と自分の思考に対する価値がほぼ価値の無いゴミになります。
 そこに体験のない体験、思考が無効の世界があることが直観されて、そこがこころの平安だと思うのです。
 まあ、このような体験談は余計と混乱を招くかもしれませんが、期待を捨てて坐る、”doing nothing” 何かになりたい、何か期待するものがあれば冥想にはならないと思うのです。大切なのは、ただ気づいていることです。

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【英知の学び交流会】

5月6日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)
内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

学びのガイド 正田大観


【みんなの仏教】

5月13日 土曜日(原則 第二土曜日)・13:30~17:00
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)
内容 ブッダの冥想を実践し参加者一同で意見交換をします。


【京都ダンマサークル】

5月20日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)
内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観


【初期仏教研究会】

4月20日 木曜日
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)


【ブッダの冥想研究会】

5月28日 土曜日13:30~17:30
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp (吉水 秀樹)
内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。


 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)

ブッダの冥想 ―身体がない・私がない―

    ブッダの冥想 ―身体がない・私がない―  吉水秀樹景色


 私たちは普段当たり前のように、「私には身体がある・私はある」と思っています。その私とは、「手」のことであり、「足」のことであり、「考え」のことであり、「意志」や「感情」のことです。また、「仕事」や「家族」や「家」などの所有物のことでもあります。
しかし、今あげた要素はすべて、名称であることを知らなければなりません。「手」は名称です。名称はそれそのものとは異います。このことに心底目覚めることがブッダの冥想では、絶対不可欠です。名色分離智慧とも言います。この「名称」と「それそのもの」を勘違いすることが、すべての苦しみの根源になっています。
 ヴィパッサナー冥想を始めた最初の頃に、この大いなる勘違いに、あっさりと気づきました。冥想で「手」が観察できない、「足」が観察できません。手足と呼んでいるのはただの名称でした。そこにあったのは痺れ痛みなどの「感覚」でした。感覚が生じて「足」という言葉が生じますが、これは「想」つまり、知識であって足そのものではありません。冥想で観察される対象は、感覚・知識・感情・思考など、実体のないあらわれては消えるものだけでした。すべては無常ということです。
 別な言い方で説明すると、テレビの画面を見てドラマに夢中になっています。この時、実際に見ているのは、画面の液晶の細かな「色」です。そして、登場人物が喋っている訳ではなく、音は別のテレビの裏側のスピーカーから発生しています。私たちがドラマと呼んでいる物は、「つくられたもの」(自分で勝手にもりあがって作ったもの)に違いありません。これをこの場合【saṇkhārā】といいます。「つくられたもの」のことです。この「サンカーラ」を自分で体験することが仏教の醍醐味でもあるほど大切です。“sabbe saṅkhārā aniccā”「すべては無常である」とはそのことです。
そうして、私たちの日常の暮らしはその、【saṇkhārā】つくられたもの(妄想世界)の中で暮らしています。
☆パラマッタparamattaとパンニャッティpaññati、事実と概念の区別がついていないのです。
“niccaṃ navāva saṇkhārā dīpajālā samūpamā”という言葉に最近出会いました。直訳すると「すべてつくられたもの(条件づけされたもの)は、灯明の火のように常に新しい」、私たちは常に新しいものに触れているのに、過去にしか興味がないようです。

ブッダの冥想は気づきの冥想であり、ヴィパッサナー冥想と言われています。その意味内容は「今ここで明確に観察する」こと、この真相を見ることに他なりません。

  『執着と悲しみ』  ※サンユッタニカーヤ・相応部36、6/雑阿含 17、15「箭」より

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 昨日はスイレンの葉をシカに食べられた憂い苦しみについて話しました。その苦しみの発端が「こうあって欲しい」という私の執着であることは間違いありません。ところで、つい最近二つの葬儀がありました。どちらもかけがえのない伴侶をすい臓癌・脳梗塞であっという間に亡くされた方が喪主となる葬儀でした。大切な人を亡くした憂い悲しみとスイレンの葉を食べられた嘆き悲しみは、比べるのも不謹慎な気がしますが、大きさが違うだけで本質は同じです。スイレンへの執着は一時間もあれば何とか解決できますが、伴侶を失った人の嘆きは一時間では解決できないと思います。しかし、そこでブッダの教えを知っているか知らないかで、大きな違いが生じます。
 
 ※以下、サンユッタニカーヤ・相応部36、6/雑阿含 17、15「箭」より

『私の教えを聞かない凡夫も、また私の教えを聞いた聖なる弟子も、楽しい感覚を感じ、苦しい感覚を感じ、また苦しくも楽しくもない感覚をも感じる。では、同じように苦しみや楽しみに触れて、凡夫と聖なる弟子の違いはどこにあるだろうか?
 凡夫は苦なる感覚に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心は狂乱するにいたる。つまり、彼は二重の感覚を感ずるのである。それはたとえば、第一の矢をもって人を射て、また第二の矢をもってその人を射るようなものである。
同じように、凡夫は、苦に触れると怒りを感じ、眠れる怒りの素質に彼は支配される。そして、今度は欲楽を求める。凡夫は、憂い苦しみから逃れる方法を、欲楽しか知らないのだ。欲楽を求めると、今度は貪欲の素質が彼を支配する。つまり凡夫は、楽を感じても、苦を感じても、それに執着して苦しむ。
 一方で聖なる弟子は、苦なる感覚に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、こころ狂乱するに至らない。それは例えば、人が第一の矢をもって射られたが、第二の矢は受けなかったようなものである。
なるほど、仏道を歩む人であれ、例えば家族を亡くしたときに、第一の矢(悲しいと感じる)のは仕方がない。しかし、第二の矢(泣き叫んだり狂乱して苦に囚われる)に射られない。
お経の最後に詩があります。その第3節は次の偈です。
「こころに則うも、則わざるも、みな悉く消え果てて、清浄無垢の道を往き、彼の岸にこそ立てるなれ」』  
 私たちが生きていたら、素敵な感覚にも触れます。またしかし、必ず不愉快な感覚にも出会います。そして、大半はどちらでもない感覚です。好きな感覚に触れては執着してそれを追い求め、嫌いな感覚に触れてはそれを嫌って怒りのこころをつくり、どちらでもない感覚に触れてボーッとしていたのでは、こころの成長はありません。ブッダの気づきの冥想を実践する者は、どんな感覚に触れても気づきを保ち、執着を捨て、酔いの世界から目覚めて、今ここのあるがままに生きることが仏道の中核かと思うのです。
 『さぁ、弟子たちよ、もろもろの事象はすべて壊れ行くものである。怠ることなく気づきを保ち涅槃に至れ!』