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第五回初期仏教勉強会レポート 平成二十九年 九月二十八日 於 安養寺本堂

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              その一 基調法話編 吉水秀樹
 ニャーナラトー師の基調法話は『輪廻の危険を見る者』についてでした。このテーマが選ばれた経緯は、私が師の口から以前聞いた「輪廻の危険を見る者」という言葉が気になり、その後いく度となく冥想中に私の脳裏を過り、そのことについて事前に会話したことがきっかけです。
 パーリ語で出家者のことをbhikkhuと言います。漢訳では比丘となります。ニャーナラトー師は比丘です。比丘の意味は二つあります。一つは、「乞う者」です。もう一つが「輪廻の危険を見る者」です。
 私がこの質問をした理由は、以前は「怒り」や「貪欲」の感情の芽を察知したときにこの輪廻の危険を感じていたのですが、この頃は夕食を食べるときなど、何か楽しみなことを目前にしてこころの高揚を感じた時に、この輪廻の危険を意識し始め、もっと深く検べてみたいと思ったからです。
 今までは夕食を食べることに疑問を持つことはありませんでした。しかし、テーラワーダ仏教の出家比丘に出会って、午後の食事を摂らないという戒めがあることを知り、自分の姿を省みるようになったからだと思います。
 ニャーナラトー師は、最初にアチャン・チャーの言葉からコブラの喩えを教えて下さいました。普通の人は猛毒を持つコブラの頭は危険なので、コブラの頭に不用意に触れることはしません。
しかし、愚者は尻尾なら大丈夫と思って、尻尾をつかんでしまいます。コブラは簡単に身体をくねらせて、毒牙の危険にさらされてしまいます。この喩えは、「善いこと・楽しいこと・楽」であっても、それに執着することで最終的に苦しむことになるという意味です。それを「輪廻の危険」とし示して下さいました。
 これは私の感じていた事と一致してきます。夕食を楽しみにすることは悪いことのようには思えませんが、期待をし過ぎると期待外れのときには不愉快な気持ちになってしまいます。また、もっと愚かな人は行列のできるような店に時間や労力お金をかけて食べに行って、期待通りでないと怒りの感情を出して不幸に陥ってしまいます。午後の食事を摂らない比丘と、行列のできる店に並ぶ凡夫との違いは歴然で、これが「輪廻の危険を見る者」比丘の姿です。
 もう一つ喩えは、中国の「太公望」の話しです。太公望は釣りをしていたのですが、何とその釣竿の先には釣針がついていないというのです。皆さんも釣りをしない人でも釣りという実感は理解できますね。海辺にでも立って、釣針に餌を付けて獲物を狙う感覚です。さて、その釣り竿の先にはただ糸があるだけで、釣針がないとどんな感じがしますか?
この感覚を実際に感じてみてください。ニャーナラトー師はご自身の経験かから「居心地が悪い」感じと仰いました。気持ち悪いと言うのか、「何か変」という感じです。針がないと当然引っ掛かるものもないし、獲物が釣れるはずもありません。釣りたいという気持ちも、魚を追う感覚も生まれません。この「居心地の悪い」感覚こそが実は仏道、冥想ではとても大切というのです。ある意味で「生きている実感がない」とか「重さがない」「探すものがない」「色がない」、doing nothingとも表現できます。
 そもそも、苦しみが起こる原因連鎖(輪廻)をお釈迦さまは縁起として説かれました。十二支にわけて十二縁起といいます。十二縁起の始まりは「無明」であり、これは文字通り「明かりがなく見えない」「無智で真理が見えていな」という意味です。十二縁起では、「無明」の次が「行」で、saṇkhāraサンカーラといいます。サンカーラは一種のエネルギーのようなもので、「形成力」とも訳されます。「感情」とか「~したい」というエネルギーと考えても間違いではないと思います。無智があってもそれだけなら、何も起こらないのですが、そこに凡夫は行動の源となるエネルギーが縁りて、縁起の回転が始まります。これが輪廻流転の始まりです。このサンカーラが曲者なのですが、先の喩えで言うと「釣針」がそれにあたります。釣針がないと何にも引っ掛らないので、苦しみの種がないのですが、釣針を持っていると何かにつけ引っ掛かりが生じて、問題が起こります。まさに、私たちが生きているという実感がこれになります。生きているという実感は釣針のある状態です。
 この釣針のない釣りの真相は深いです。普通の人は釣竿に釣針をつけて、獲物が釣れるように釣針を調整することが人生のようです。比丘の生き方は釣針のない釣りとも言えます。またそれは、「輪廻の外にある」「普通でない」妙な生き方なのです。それで比丘の姿もどこか変なのだと、ニャーナラトー師は自分で笑って仰いました。
普通の人が比丘に会ったり、お寺に来ることが、何かしら違ったあり方に出会う貴重な体験となり得るのも、このような妙な生き方があってのことです。
 最後にアチャン・チャーの言葉から、「因果を超える」「因を離れて、果を超える」という意味のタイ語の説明を交えて法話をされました。
要約すると、普通の人々は「こうしたら、ああなる」「こうしたら、あれを得られる」「これをしなかったら、あれは得られない」という、因果の中で日々の生活をしています。この因果関係が生き方の基盤になっています。これは当たり前のことで、これが釣竿に釣針をつけて調整し、獲物を期待する普通の生き方です。しかし、輪廻の危険を見る者は、この輪廻の中での生き方を離れて、釣針を捨てて釣をするような生き方になります。獲物が釣れることは一生ないし、釣りをしているようで、本当は釣りさえしていないのでしょうか。

レポート その二  質疑応答編
『因果と縁起の違いについて説いてください』
これは大変基本的で重要な質問です。私の言葉で説明します。
★「因果」とは、原因と結果の関係です。仏教では「善因楽果」(善因善果)「悪因苦果」(悪因悪果)と説きます。これは常識レベルで理解できることです。
「受験勉強を頑張ったので試験に合格した」、「不倫をして不幸になった」など主に時間の流れの中での大きな原因と結果です。これを理解して実践することも立派な仏道です。しかし、「縁起」を理解するほど、仏道の中核になることではありません。
「縁起」はもっと肝心要な、それらの因果のプロセスを説いたものです。もっと言うと、「因」のプロセスを説き、「果」のプロセスを説くのが「縁起」だと思います。そもそも「仏教を学ぶとは、縁起を学ぶこと」です。パーリ語辞書で有名な水野弘元先生は「仏教とは何かと一口にいえば、それは縁起を説くものである」と明確に断言されています。パーリ語経典のブッダの言葉のなかに、「縁起を見る者はダンマを見る、ダンマを見る者は縁起を見る」とか、「縁起を見る者はダンマを見る、ダンマを見る者はわれ(ブッダ)を見る」という言葉があります。縁起を正しく見て理解する者は、必ず仏法を正しく見、そもそもダンマとは「縁起」をもって代表されるということです。
 さて、その「縁起」とは何かと一言でいうと、「縁りて起こること」です。「縁りて」は「条件によって」と理解できます。「起こること」は、「起こる道理」です。つまり、縁起とは「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」です。
また、「縁起」を説くブッダの有名な言葉が次の句です。
「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す」
 ヴィパッサナー冥想される方は、何を観察しているのかと一言でいうと、これも「縁起の観察」をしているのです。冥想をしていて「音」が聞こえます。玄関チャイムの音だとします。そこで、勝手に「クロネコヤマトの人だ!」と思って、感情が生じて慌てて冥想をやめて玄関に走る人もいると思います。行ってみたらその通りの事が起きている場合もありますが、まったくの思い違いの場合もあります。
さて、これでは冥想にはなりません。「音」が聞こえて、その対象が「玄関チャイム」だという想念が生まれます。次にやっかいなサンカーラ(行=感情)が生まれます。これが先日の「釣針」です。「そういえば昨日amazonで本を注文したわ! きっとその本の配達に違いない!」と感情と妄想が始まります。この時点で「気づき」(サティ)を入れて、放っておく、捨てることもできますが、気づきのない人は玄関に走って、危険な輪廻にまきこまれて行きます。
このような「縁起」を明確に見る人は、感情に左右されることなく、そのまま坐っていることも、落ち着いて対処することもできます。当たり前のことですが、「縁起」は、常に今ここで起きています。生まれてから死ぬまで、ずっと続いています。縁起は脳内で実際に起きている現象です。「生きる」ことの最小のプロセスです。この脳のシナプスの連鎖反応の最小単位が「これありてかれあり」です。この刹那の自分の人生の最小のプロセスに気づいた者は、その瞬間に自分の人生を100%自由に導くことができます。なぜなら、最小のプログラムを観察しそれを消し去る法を理解したからです。
 ブッダが2500年も前に、すでにこの縁起の法を発見して明確にその実践法を説いているのです。それがヴィパッサナー冥想です。パーリ語経典に次のような言葉があります。
Yaṃ kiñci samudaya dhammaṃ sabbaṃ taṃ nirodha-dhammaṃ 日本語に訳すと、「あらゆる生起の法は、すべてこれ滅の法なり」となります。
 十二縁起を理解するのは大変ですが、すべては「滅の法」であることを理解されたらよいと私は思います。nirodhaニローダという言葉です。nirodha-dhammaṃとは「消滅の法」「滅法」です。
 「これなければかれなし」、何か自分の無意識にしていることに気づき、縁起を見て、それ明確に観察したら、輪廻の危険を見る者になります。コブラの頭である、コブラの尻尾であると、明確に見る者は、それを掴むことはありません、そこから離れられます。縁起を見たら、本来の姿に戻り、幸福になれるということです。

レポート その三 質疑応答編
 ★実践冥想について
『doing nothing. 何もしない、これだけでは余りにも不親切で、「ただ座れ」と言われているのと変わらないように思います。私の経験では、テーラワーダ仏教に出会って、実況中継や身体の感覚の観察など、さまざまな方法を教わって、それが私にとっては眼から鱗が落ちるようなブッダの冥想実践との出会いになりました。ただ、それらのメソッドは自転車の横玉のようなもので、やがて自転車に乗れるようになれば必要なくなるだろうと思っています。さて、ニャーナラトー師は実際に初めての方に冥想指導をされる時は、どのような指導をされるのですか?』
これは私の質問です。ニャーナラトー師は、「呼吸観察」や「実況中継」マハーシ方式のメソッドをあまり言われないように感じたので、師の冥想法について尋ねたわけです。
私の考えていることを理解された上で頂いたアドバイスを私の言葉でまとめます。この内容をまとめるのは難しいので、私の学んだこととして考察します。
 一つは、「集中」と「気づき」の違いです。どうしても冥想というと、集中のイメージが強いのですが、ブッダの冥想は飽くまでも「気づき」こそが肝心です。それは「境地」とか「何者かに成る」「達成する」こととは違います。どこまでいっても「気づき」であり、どこまでいっても「観察」です。そういう意味では到達することのない世界であり、「悟り」や「涅槃」という概念が崩れます。

  ★立ち位置
師の言葉で言うと「立ち位置」こそが肝心で、いつでも「立ち位置」に戻ることが冥想とも言えます。「妄想してはいけない」という世界ではなく、そこに気づいたら、ただ「立ち位置」に戻るということでしょうか。
「Doing nothing. 何もしないって…、いったいそれが何になるの!」その「何になるの!」が釣針であり、しっかりと何者かになりたいという衝動を握っていることになります。
「立ち位置」や「ものの見方」が大切なのであって、「答えを探す」「何かを求める」ことは必要ありません。「答えを探す」ことが釣針になってしまいます。思考や妄想の量は問題ではなく、「立ち位置」こそが肝心ということです。

  ★駅と電車の喩え
 アチャン・チャーは、こころを「駅と電車」に喩えて説かれたそうです。駅にはさまざまな電車が到来します。満員の電車、空の電車、特急電車・各駅電車、駅にたくさんの電車が有るときもあれば、空っぽのときもあります。冥想においては、電車に煩わされないことが大切です。電車は放っておく、電車への対応に煩わされたり、好きな電車、嫌いな電車と一喜一憂するのではなく、「駅に戻る」「駅に安らぐ」、駅というあり方が肝心要なのだと。
 サマーディ(禅定)と言われるような統一感や、覚りの境地を思い描き、それを目指すことに私たちは捉われやすいのですが、これがコブラの尻尾であり、冥想の境地とは通り過ぎてゆく電車である。例え七つ星の光り輝く電車が来ても、それはただの電車であり、輪廻の中の出来事に過ぎないと達観して、駅に安らぐ、これが師の冥想実践の要のようです。
 ニャーナラトー師ご自身の経験から、自分が何かになる、何かを手に入れることは根本的にしんどいものであると気づかれて、落としていく、手放す、冥想は何もしないことという、「方法」や「~する・しない」ではない中道を見つけられたのだと理解しました。
 兄弟子にあたる、アチャン・スメードー師からは、「微かに聞こえる音」「沈黙の音」に安らぐ、雨音や微細な風と共に安らぐといったことを学ばれたらしいです。
 釣針の無い世界や、駅にたたずんで通り過ぎる電車を眺めている感じでしょうか。このような「立ち位置」が師の実践冥想のようです。
 釣針の無い釣り。電車に乗らないで駅で安らぐ。ただ掴むのをやめる。手放す。冥想中に静かに眼を開けても、対象に向かわない、対象に向かわないので、分別が無い、見解が無い、このような楽さがニャーナラトー師の冥想であり、ありのままなのだろうと私は理解しました。

レポート その四 質疑応答編
 
★仏教(冥想)では、落とす、手放す・捨てる・離す・気づく、といった言葉があるが、これらの実践的な意味について…
 英語では、let it go. Letting go. タイ語では「プロイワン」、日本語では「手放す」「放置する」これらの言葉は、ニャーナラトー師も入門当時から耳にタコができるくらい聞かれたと、しかし、見事に勘違いしていたという自身の経験から話して下さいました。
 これらの言葉は動詞なので、「手放すことをする」「落とすということをする」というように、「すること」だと思い違いをしていたと。本当はそれらとは正反対のアプローチで、「するのをやめる」「掴むのをやめる」「何もしない」…
 確かにこれは冥想実践者の登竜門だと思います。私たち凡夫はコブラの頭や尻尾をしっかりと掴んで、それで「どうしたら手放せるのか?」「どうしたら幸福になれるのか?」と思い悩んでいる。これは別の喩えで言うと、無明に覆われた私たちは、氷でつくられた仏像を見て、美しいと感じるだけでなく、それを欲しいと思い、家に持ち帰ろうと努力奮闘して、もがき苦しんでいる。「気づく」というのは、「何かをする」というより、ただありのままを明確に見て、「なんや、氷やん!」と、真相を見たものはそれを持ち帰るような愚行はしない。真理を知れば掴もうと思っても本気にさえなれない。

 ★『膨らみ縮みで、今ここに戻れる人はいがいに少ない』
 私の質問に対してニャーナラトー師が言われた何気ない言葉です。解説のない一言でしたが、後々私は考えさせられました。
私の独り言ですが、スマナサーラ長老がお腹の膨らみと縮みの観察を坐る冥想の中心にもって来られるのは、これらが生まれてから死ぬまで一貫して、常に「今ここ」にあるものだからだと思います。私は冥想の大方をこれに費やしています。
理論的には、お腹の膨らみと縮みを観察することで、一瞬にして迷妄から離れて「今ここ」に戻ることが可能です。しかし、言葉の世界を超えてこの冥想実践の真相は、輪廻の世界から、次の瞬間に努力や時間もかけずに涅槃の世界へ移行することとも言えると思うのです。
 人によって、「今ここ」観察の精度は違うと思います。膨らみと縮みと言っても、それを暗闇の中で電池の切れかけた懐中電灯で探すようなレベルのものもあれば、白昼の光明の中で明確にレイザーの如く実相を見るものまであると思うのです。
事象が生滅、生滅と変化している実相を見るとき、「妄想→気づき 妄想→気づき」と、こころが流れている様にも見えます。気づいたときに、完全に妄想が消えれば、妄想が痕跡を残すことはありません。そこに完全な間合があり、そこは自由であり、時間や思考の影響はありません。それは輪廻→涅槃・輪廻→涅槃という、今ここにある実相のようにも見えます。
たいそうな話しになりましたが、「膨らみと縮み」の観察と言っても、それをなめてはいけないと思うのです。本当に力を抜いて、明確に観察したときに、「膨らみと縮み」の観察で今ここに戻れると思います。その瞬間にすべての過去から自由になれると思います。それが釣針のない姿であり、立ち位置であり、駅に安らぐということなのではないかと思うのです。
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 無常偈  2017年9月10日 安養寺みんなの仏教報告

 
無常偈 
諸行無常 aniccā vata saṅkhārā 色は匂えど散りぬるを 
是生滅法 uppādavayadhammino わが世誰ぞ常ならむ
生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti  有為の奥山今日越えて 
寂滅為楽 tesaṃ vūpasamo sukho 浅き夢見し酔ひもせず
 無常偈は言うまでもなく、仏教思想の根本となる偈文です。言いかえればこの偈の意味を完全に体得することは、解脱することでもあります。漢訳の漢字16文字では見えない内容が、元のパーリ語を読むと理解できます。
 たとえば、一文字目の「諸」はどこから来ているのでしょうか?
 これも元のパーリ語を理解すれば分かります。saṅkhārā が「行」に当たります。saṅkhāra が元の語基です。āとなっているのは複数形を意味します。そこで「もろもろのサンカーラ」なので「諸」という漢字が当てられたのです。もっともsaṅkhārāの意味が深いので、そこは冥想で実際にすべて現象を観察する修行をしないと空論になってしまいます。
 aniccā は元の形は、niccaであって、「常」です。aは否定の接頭語で「無」です。「常で無い」という意味で「無常」となります。vataは副詞で「実に」という意味です。そこで、「もろもろの現象は実にうつろい壊れゆく」といった日本語訳がすんなりと理解できます。
 さて、この無常偈は「いろは歌」としても有名です。いろは歌はお釈迦さまの前世物語の「雪山童子」の物語として語り継がれています。お釈迦さまの前世で雪山童子であったとき、ヒマラヤの奥で修行されていました。冥想していたら、羅刹(人を喰う妖怪)が歌を詠みます。これが無常偈の前半です。
  「色は匂えど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ…」
童子はこの偈がただの詩句ではなく真理を説くものと直観し、羅刹に偈の続きを聞かせてくれと頼みます。羅刹は教えてやるが「教えたらおまえを喰いたいので命をくれ」と言います。童子はこの偈の後半を聞けば解脱に至ることを直観し、真理を知らば身体に対する執着も消えるので羅刹に後半の偈を聞かせてくれればこの身をおまえにやると言います。
 羅刹は後半の偈を読みます。
「有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず」
 すべての偈を聞いた童子はその場で真理を理解します。そこで、羅刹に無駄な殺生をさせない為に、自ら崖から投身します。そのとたんに、羅刹は帝釈天に姿を変えて童子を救い取り、後生にこの真理を人々に説くように雪山童子に頼んだというお話です。このような歴史があって、現在私たちが無常偈に触れることが出きるのかと思うと感慨深いです。
 さて、後半の偈は、生じては滅し、滅しては生じるこの有為の世界では、得した損した、儲かった損した、美味しかった不味かったの感情の流転(輪廻)に終始し、そこには本当の幸福などはない。ほんとうの幸福とは、この生じては滅する、滅しては生じる、生滅の連鎖反応が完全に終止した、もう二度と母体に宿らない寂滅(涅槃)にある。これこそが真の幸福であると説かれてあります。なるほど仏教思想の根幹に違いありません。
 2017年9月10日 安養寺みんなの仏教のレポート 
                   住職 吉水秀樹
Hange_Shashin-zu_by_Kubota_Beisen (1)

無常偈①

無常偈

無常1

講座案内

講座案内

【英知の学び交流会】

8月6日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)
内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

学びのガイド 正田大観

【京都ダンマサークル】

8月19日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)
内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観


問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp (吉水 秀樹)
内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。


 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)

第四回初期仏教勉強会レポート その三

法話

   『疑(ぎ)』 vicikiccha について 吉水秀樹
 ニャーナラトー師との問答のなかで、予期せぬ気づきがありました。私のこころのなかに潜む「疑」と呼ばれるしつこい煩悩の姿を見たことです。
 「疑」とは、一般的には「疑う」ことと理解されています。「信ずるものは救われる」といい、「信仰」を説く宗教全般では、「信じる」ことが善いことで、「疑う」ことが悪のようにとらえられています。しかし、ここでいう『疑』とは、「疑う」ことではありません。
スマナサーラ長老によると、「疑」には二種類あり、理性のある人の疑は、何でも鵜呑みにしないで確かめる良い疑。調べて確かめるまで、結論・判断を保留にすること、これは正しい「疑」です。英語でいう reasonable doubt であって、仏教が認める立派な態度です。
一方、悪い疑は、知識、能力、理性の不足によって現れる「無智の疑」です。混乱した頭で疑心暗鬼になる「無知の疑」は悪い疑です。
整理すると、仏教で説く『疑』とは確信にいたらず、あるいは確信を得てさえも、思考妄想を終わらせない、しつこい思考癖のことをいうようです。凶暴な虎で喩えられるほどしつこい人間の持っている、いつまでも考えていたい、私を継続させたいとする根本的な煩悩のひとつです。
 さて、私たちは普段、見たものは「ある」、聞いたものも「ある」、名称のあるものは「ある」という世界に生きています。目の前に見えるペットボトルがある。外に屋根が見えたら、「屋根がある」と考えて、「私がある」それを事実だとしています。しかし、ヴィパッサナー冥想を体験してはじめてその「ある」という世界に「?」が生じます。これらすべての対象は無常といって常に変化し生滅しているものです。この「?」は智慧の光です。「ある」が事実なのか、「見ている」が事実なのか、今まで考えもしなかった、健全な疑問が起こります。坐る冥想で念処経に説かれてあるように身体や感覚の観察をしていると、この疑問が必然的に起こります。
 そこで、冥想で観察される「身体」と「感覚」について師に尋ねてみました。質問を単純化すると、「身体があって、そこに感覚が生じる」のか「感覚があって、身体があると思っているのか」「身体を直接観察することはできないのではないか?」という内容になります。
 普通、人は「私がある」そして、その私には「身体がある」と思っています。そのように考えているので、「私には身体があって、対象物もあって、感覚が生じている」と考えています。しかし、ヴィパッサナー冥想によって、ありのままに起きている現象を観察する力が身につくと、感覚の真理が見えてきます。「私がある」「身体がある」「対象物がある」「感覚がある」という、「あるという世界」「思考の世界」から、「ありのままの世界」への移行が静かに始まります。冥想においては、「私がある」「対象がある」と考えることが妄想です。「感覚が生じては消えて、生滅している」という、ありのままの世界が見えてきます。「あって当たり前」の世界から、思考を離れたありのままの世界への扉が開くわけです。
 そもそも、仏教でいう世界とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六境(色・声・香・味・触・法)です。六根の感覚器官に、六境が触れると、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)があらわれるので、あわせて十八界とも言います。
 冥想実践において、最初に観察されるのは感覚です。何か聞こえたら、音音音と観察します。感覚から「セミ」「カラス」「電話」のように命名し対象を自分でつくっています。身体に感覚器官として耳があり、その感覚器官に外界の音が触れます。そこではじめて耳識が生じて、感覚が生まれます。私たちが感覚と呼んでいるのは、この六識です。
Aという感覚器官に、Bという対象が触れて、Cという感覚が生まれます。私たちの認識とは、AでもBでもなく、Cであって、それは六識です。対象があるとするのは思考妄想であって、感覚を感じているのが真相のようです。対象があるかないかは管轄外であって、ある・ないは私には断言できません。冥想において、自分の身体を直接観察することはどんなに頑張ってもできないのではないか? ただできるのは、感覚の観察ではないか? 痛みや痒み、熱や固さ柔らかさなどのエネルギー(感覚)を通じて、身体があると思考するだけなのではないか? 映画で見たマトリックスのような仮想現実の世界を「ある」としている、私たちのねつ造した思考妄想の世界へ智慧の光があらわれます。
 大乗仏教の華厳経に破地獄偈(唯心偈)という詩句があります。お盆になったら全国のお坊さんが唱える偈文です。「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」意訳すれば、「もし、人が過去現在未来のすべての仏、ダンマの世界を理解したいなら、まさに、すへてをこころがつくると観察しなさい」という内容で、唯識と関連した偈文です。
 窓の外に目をやって「屋根がある」と言いますが、眼識に光が触れて、五蘊の流れから、「屋根がある」という認識が生まれているのが真相です。「屋根がある」とは思考です。なぜ私たちはわざわざ見たものを分別したり、名前をつけたりするのでしょうか? このような疑問、問いかけを自分にすることが肝心です。本当に見ているのは光や色であって、脳内で対象をわざわざ分別しねつ造して、苦楽を受けています。私たちの認知している世界は私がつくったもののようです。ですから、百人の人がいたら、百の世界が生まれて、ぶつかり合います。これが私たちの日常の世界です。気づきのないとき、私たちは事実を見ているのではなく、脳内の分別・知識・記憶を見ているものに当てはめて事実としているのが真相のようです。
 話しは長くなりましたが、その真相について師に確認するように私は尋ねたわけです。すると、ニャーナラトー師の返答は一言でした。
「それは、ブッダの教え通りではないですか。」つまり、それは「目の前にある当たり前の事実でしょう」という意味の一言でした。私の疑念は、最初の一言で終わりました。聞いている人は何の問答があって、私が受けた衝撃を理解されていなかったかもしれません。
 私と師の違いは、師は修行により体得したことに確信があり、そこに智慧の光があるので疑は生じない。一方私は、体験したことに確信がなく、本当にこれでいいのだろうか、まだ他にも法があるのかもしれない…と。私という「我」が継続するのです。いや、継続させたいのです。これこそが『疑』の正体であり、しつこい思考癖、凶暴な虎とはこのエンドレスに理解したい、私を継続させようとする執着なのだと気づいた瞬間でした。
 冥想で真理に触れたとき、実践者のとるべき態度があるとを学びました。それは、真理を記憶にとどめてはいけないことです。記憶にとどめた時にそれは見解・執着と変化します。実践者のとるべき態度はその場で捨てることです。考えてみればこれはブッダの言葉でした。

第四回初期仏教勉強会レポート その二  吉水秀樹


  『戒禁取見(かいごんしゅけん)について』
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 私の個人的な疑問から、戒禁取見(戒禁取)につてニャーナラトー師に尋ねました。私には学びになりましたが、会場に来られた多くの方にとっては、聞きなれない仏教用語の意味など、疑問が残る質問になってしまいました。そのような経緯があって戒禁取見についてレポートします。
 戒禁取見を一言でいうと、戒律や儀式に執着することです。そのために一般の人は、「それなら私には関係ない」と思われがちです。確かにお坊さんがこの問題に出会う確率は百%ですが、仏教に関心のない一般の方には、むしろ社会の常識に位置するものなので、問題になり難いテーマです。しかし、ニャーナラトー師も仰られたように、これは大問題なのです。師は広い意味では、cultural invention 文化的慣習とも説明されました。文化に対する執着は予想以上に根深く強烈なものです。イスラム教文化とキリスト教文化の人々から戒禁取見が無くなったら世界が平和になることは間違いありません。日本でとんこつラーメンの店は繁盛していますが、イスラム文化の国でとんこつラーメンの店を出したら、人間の食べ物ではない、非常識として排除されることはまちがいありません。
 ここからはスマナサーラ長老が書かれた『縁起の分析』などをもとに、戒禁取見について私なりにまとめてみます。
 輪廻に結び付けるシステムについて abhijjhā kāya-gantha(強い欲・集まり・結ぶ)
長老の『縁起の分析』によると、こころの平安を妨げ、輪廻からの解脱を邪魔する、「強い欲で結ぶ四つのシステム」があるということです。
① 強い欲 ②強い怒り ③戒禁取見 ④「これが真実だ」と執着する、以上四つです。
その中の③が「戒禁取見・戒禁取(sîlabbataparâmâsa)」です。
sîlaは「戒」です。bbataは「いろいろな修行」です。Parâmâsaは「固執すること、信じること」です。簡単に言うと「邪見」のことであり、「間違った考えに執着すること」です。「間違った考え」というのは誰にでもあるので厄介です。戒禁取見は、間違った見解に固執して離れなくなることなので、これがあると輪廻に結び付けられて、智慧が働かず解脱に至りません。
 さらに説明すると、儀式儀礼、宗教的しきたり、苦行などによってこころが浄らかになるという観念的な思考や、儀式や儀礼をきっちり守りたい、威儀作法・戒や律に強くこだわることです。礼拝は三回するべきだ、焼香の作法にこだわる、線香の数にこだわる、お経の読み方や法式、衣の着方と仏具の持ち方など、これらの雑事にこだわることもこれに該当します。
自覚があるかないかは別にしても、日本仏教の多くのお坊さんにとって、この戒禁取見は笑い事ではすまされない大問題なのです。「そうは言っても、かたちは大切だ!」と聴く耳のない方も多いと私は思うのです。
 私は正しいか正しくないかはわかりませんが、戒禁取を広い意味でとらえて、「戒取」は「~するべき」、「禁取」は「~してはいけない」と考えています。「~するべき」と「~してはいけない」の両極に執着することが、戒禁取の根本だと思うのです。お坊さんから、「~するべき」「~してはいけない」の二つを取り除いたら、いったい何が残るのだろうと考えたりします。だから、これは大問題だと思うのです。
 この両極への執着があると、こころの平安が得られず、解脱には至らないことは間違いないと思います。日常の私たちのありのままの姿をよく見てみれば、この二つの両極にいかに縛られて生きているかは、お坊さんに限らず、すべての人々の深刻な問題だと思うのです。
 ある意味でブッダの説かれた修行は至って簡単です。ヴィパッサナー冥想がそれです。私でも、初心者の方に三十分ほどあれば冥想の説明ができます。私も長老に直接そのように説明して頂きました。長老は「これで説明は終わりです。あとは実行さえすれば解脱できます」とアッサリとハッキリ語られました。しかし、いやいや日本の禅の方が奥深い、坐り方・手の置き方・視線の位置、厳密に形が決まっていて、テーラワーダ仏教なんて、小乗のインチキ仏教だと言う人もいるかもしれません。かたちが決まっていないものは「修行」と認めない、と考える人も多いと思うのです。
 ブッダの教えはいたってシンプルです。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根と、色・声・香・味・触・法の六境が世界です。六根と六境が触れて生じる感覚への執着(渇愛)が苦しみの正体です。ですから、修行とは自分の感覚を守ることであり、感覚への執着を捨てることです。これがブッダの冥想のすべてで、こころを浄らかにすることです。
 しかし、多くの宗教では、諸悪の根源は外界にあり、儀式で身体を浄めることで、こころも浄らかになると信じて、さまざまな儀式を推奨します。聖水やガンジス川の沐浴でこころが浄らかになるのなら、フナやドジョウのほうが私たちより先に解脱することになるでしょう。また、女性を見たことで性欲が生じて惑わせられるので、女性の身体は全身を隠して目だけを出すのがよいとか、美しい音や御馳走に触れて貪欲が生じるので、それらに触れることのない山奥で隠遁生活をするというのも、問題が外の世界にある、外の世界を浄化すれば、幸福もこころの平安も得られるとする、人間の間違った考えがベースになっていると思います。
政治家の政治活動も、戦争も、現代社会の姿がそのまま、すべて外の世界を変えることに終始しています。高速道路や新幹線が整備されて、ますます人々が忙しくなり、こころのゆとりがなくなったことも、外の世界の問題にのみ目を向け、こころの浄化に努めず、外界を変えることにエネルギーを費やす人間のこの間違った考えの証明です。
 ブッダの教えはこれらの考えの正反対で、こころが本当に浄らかになった人だけが、周囲の世界に平安をもたらすことができるという考えです。ですから、何をおいてもいの一番に自分のこころを浄らかにするのです。
 こうして考えてみると「戒禁取」は、かたち・形式・外見・外の世界に依存して、肝心なこころの浄化、冥想修行を後回しにして、悪霊がいる、平和を乱す敵がいると、問題が外界にあるとする迷いの道だと思うのです。
 戒禁取見は、物事の本質が見えているか否かの大問題です。世俗に生きる私たちの人生にとっても、道徳・規則・規範は大切です。しかし、、それらに何一つ執着しない、それをもって自分は正しいとしない仏教者の生き方の肝心要が「戒禁取見」のテーマだと思うのです。
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