講座案内

【英知の学び交流会】

4月1日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)
問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)

内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。
学びのガイド 正田大観

【みんなの仏教】

4月 8日 土曜日(原則 第二土曜日)・13:30~17:00
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)
内容 ブッダの冥想を実践し参加者一同で意見交換をします。


【京都ダンマサークル】

4月15日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)
内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。
学びのガイド 正田大観

【初期仏教研究会】

4月20日 木曜日
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)

【ブッダの冥想研究会】

4月23日 土曜日13:30~17:30
場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp (吉水 秀樹)
内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。
学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。




 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)
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 『第一回初期仏教勉強会』 レポート 吉水秀樹


平成二十九年 三月二十二日(水) 於 安養寺本堂

アチャン・ニャーナラトー師を迎えて、第一回の「初期仏教勉強会」を開催しました。その内容を、私の受けた印象から考察してレポートします。ご本人の言葉ではありませんので、その点をご理解のうえお読みください。

 ★比丘の二つの意味
比丘はパーリ語では、”bhikkhu”といいます。パーリ語の辞書には、その意味として、「比丘・苾芻・乞者・乞食者…」とあります。比丘と苾芻はパーリ語そのままの音写です。ニャーナラトー師は、比丘という言葉の意味、その深奥にあるものについて語られました。

①食を乞う者 托鉢する者  
 一番目は、辞書にも出てくる「食を乞う者」という意味です。日本語で「乞食」(コジキ)と言う場合、さらに二つの意味があります。世俗的な意味では、コジキのことで、英語だと ”beggar”で、哀れな浮浪者のことです。もう一つの意味は「乞食」(コツジキ)です。これは出家者・比丘を言います。つまり、托鉢で生きる者のことです。これは哀れな人のことではありません。ニャーナラトー師が比丘であり乞食者です。これは物を生産し、社会的な仕事をして賃金を稼いで生活する者ではないという意味です。根本的な生き方や生活形態を意味しています。師はタイの森林派の僧です。生産活動はしません。賃金を稼ぐことも、お金にさわることもありません。今回の勉強会でも師へのお布施が木箱に集まりましたが、私が預かったままです。後日、付き人の方に私が直接お送りすることになっています。
私は日本の僧侶ですが、この初期仏教の本来の意味においては、比丘や出家者ではないと思っています。ニャーナラトー師は自身のことを、謙遜も慢もなく、「私は比丘です」と仰います。私のように、聖俗を使い分けて、法衣をつけたり、普段着で買い物に出かけるという、ダブルスタンダードがないのです。この意味において、ありのままの姿で生きておられる、力の入らない托鉢で生きる者としての師の姿が、そのまま「比丘」という言葉の一番目の意味です。前にお話ししましたが、ニャーナラトー師は私の知る限りもっとも腰の低い方です。その生き方が「食を乞う者」の意味なのだと私は思います。

②輪廻の危険をみる者 
二番目の意味は、「輪廻の危険をみる者」です。タイ語では「プーヘン パイナイ サンサーラワ」と言うらしいです。私の学んでいるパーリ語には、”saṃsāre bhayaṃ”(サンサーレー バヤム)という言葉があり、「輪廻に対する怖れ」という意味です。
輪廻という言葉は、もっとも誤解されやすい仏教用語なので、解説は難しい面がありますが、
「輪廻の危険をみる者」の意味はたいへん重要です。人間として根本的に、どこに立っているのかという、自分の立ち位置をあらわす言葉です。これが世俗に生きる人と、仏教者との根本的な違いにもなります。
 私流の説明では、このことは、「現世利益」と「涅槃寂静」の違いだと思います。まず、世俗で生きる普通の人々の幸福とは、この世で幸福を感じて生きることです。どの人の人生の目的も、まさに、この世で幸福を得ることにつきます。女性が美しくなりたいと思うのも、勉強して賢くなりたいと思うのも、よい仕事を得たい、素敵な伴侶を得たい、素敵な家に住んで美味しいものを食べて暮らしたい、お金が欲しいと思うのも、この世でいつか解脱を得たいと願うことすら、すべて現世での幸福を得ることと言えるのではないでしょうか。これは「現世利益」の道です。現世利益の道には終わりがありません。そうして、最終的には生老病死の四苦を超えることなく、何ひとつ所有することもできずに、すべてを捨ててこの世をひとりで去っていきます。これが「終わりのない世界」現世利益の道であり、常に何かをつかみに赴く輪廻、無明の道です。
 この「現世利益」「得る幸福」「所有の道」の対極にあるのが、涅槃の道「涅槃寂静」です。輪廻の危険をみる者は、その危険を察知して、何であれつかみ取る衝動に気づいて、こころの静寂を喜びとします。この世のありとあらゆる価値観に、「意味なし」と宣言することが、「輪廻の危険をみる者」の意味だと思います。
ニャーナラトー師には、高級車もカシミアのスーツも、札束も無価値です。私たちのように初期仏教に出会った者は、「無価値」の意味が、いよいよ「真実」としての迫力をもって迫ってきます。「あなたはどの道へ進むのですか?」という問いかけは、人生のどの瞬間にもあります。日常生活で何かに触れて、その対象に価値を入れるということは、この世で苦楽を受けるということです。人間は苦を嫌い、楽を求めますが、楽が楽のままに終わることはありません。楽を得たら、その楽を失う苦しみが必ずつきまとうからです。執着の本質を理解しない限り、最愛の伴侶を得た人は、最愛の伴侶を失う苦しみに出会うという道理です。
その意味において、輪廻は今ここにある現実の問題です。この自覚を「輪廻の危険をみる者」と言うのでしょう。そして、この「輪廻の危険をみる者」は、現実世界を娑婆・忍土・穢土・欲界と見て、価値なしと捨てます。それが出家の意味であり、比丘とはその道を歩む者ということなのではないでしょうか。

★「七転び八起き」から「七起き八起き」へ
 法話の中盤で、「七起き八起き」の話がありました。はじめ私は何のことなのかピントが合いませんでした。ニャーナラトー師の身体の動作で、私は納得しました。
「七転び八起き」は、輪廻する世俗の生き方であり、苦しみの世界です。人生には苦しみも喜びもある、という世界観です。転んじゃったので起きる。この世界観では、苦と楽の対立する二つがあります。別の言い方をすると、ひとつの世界を分断しています。その分断に使う道具は、言葉であり思考です。対立の世界とは、「言葉の世界」です。
いっぽう「七起き八起き」は、遠離の世界です。苦しみから離れた涅槃の入口です。前回の法話でもそうでしたが、今回の法話のなかでも、師は何回も前のめりになった身体を、開いた掌を正面に向けて、「スッ」と背筋を伸ばす動作をされます。この瞬間のこころのあり方が、ブッダが最期に語られた「比丘らよ、怠ることなく気づきを保ちなさい」の真意であり、仏教の唯一の道である、ただ「気づき」、ただ「目覚める」生き方なのだと思います。そのことを「七起き八起き」という、日常的でない言葉で説明されました。
初期仏教の冥想を体験されている方なら、何度も冥想中に妄想に気づいて、「ハッ」と我にかえる瞬間を経験されているでしょう。その時に「あっ、また妄想をしてしまった」とか「何でこんなことを妄想したのだろう」などと、私たちはよく考えてしまいます。その世界は、七転び八起きの世界です。その瞬間に、危険な輪廻の世界へと自ら好んで赴いています。そのように転んでは起き上がり、また転んでは起き上がることを延々と繰り返すのです。しかし、ニャーナラトー師が説かれているのは、妄想して、その妄想に気づいたら、ただスッと姿勢を戻す。それだけの世界です。次にまた妄想しても、ただ気づく。妄想に負の価値を入れることもなく、こころの静寂に正の価値を入れることもなく、ただ気づいて背筋を伸ばす。そこには、言葉も時間もありません。言葉を用いることが輪廻です。価値とは言葉です。
思えば、私は初期仏教に出会ってから、すでに二〇〇〇時間は坐る冥想を実践しています。何回妄想して、何回その妄想に気づいたことでしょうか? 妄想に気づいて、今ここに帰る時間は、最初に冥想を始めた頃に比べると、驚くほど迅速になっているように思います。妄想に気づいたとき、その妄想に対する感情や評価をしなくなりました。五蘊(ごうん)に起こるどの出来事にも実体がなく、価値が見いだせないことが体得されてきたからでしょうか? ともかく、私の意志とは関係なく、感覚が生起して、想念が生まれては消えていきます。その一部始終をただ淡々と眺めています。いちいち挨拶して苦楽の感情をつくることが苦しみです。「転んだ」という感情は、不要なのです。それが「七起き八起き」という言葉と、師の動作が結びついた私の現時点での理解です。

 初期仏教の「気づきの冥想」で大切なポイントのひとつは、思考を捨てることです。それは、言葉を捨てることです。さらに、それは思考や言葉が生まれる前の胎の動きに気づき、言葉や思考から完全に離れることです。言葉を用いる人は、その言葉を用いること自体がエネルギーの浪費であり、気づきのエネルギーを最も妨げるものであることに気づいていません。その意味で、とてつもない優しさで、自分のこころに向かい合わなければなりません。
 法話のあとの質疑応答で、何度か言葉の議論に陥りそうな場面がありました。師は、「ちょっと、興奮しました…」と微笑まれました。あれが師の気づきの世界だと思います。言葉が生まれるまえの衝動に気づかれたのでしょうか。
言葉を用いる人は、その衝動を我慢できません。我慢できずに漏らすのです。それで、言葉の世界に依存する人を「有漏」といい、その世界を離れた者の世界を「無漏」といいます。言葉の依存には要注意です。言葉は気づきを妨げます。ブッダが「私にはいかなる見解もありません」と語り、スマナサーラ長老が「正見とは、見解のないことです」と語られました。お釈迦さまの言葉によると、「見解はすべてゴミ」ということです。つまり知識を集めることは、「ゴミを集めること」で、見解を述べることは、「ゴミ自慢」だというのです。

★「欲」と「貪欲」の違い 
質問者は私です。貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩の「貪欲」についての質問です。「欲」について冥想を通じてしらべていくと、「欲はなくせるのか?」という疑問が生まれます。また、欲の種類も見えてきます。肉体を持っている以上、なくしづらい「欲」もあります。たとえば喉が渇いて水が飲みたいとか、疲れたので横になりたいといった欲求です。また、この勉強会に参加したいというような意欲も、「欲」としてあります。さらに、どこか目的地へ行きたいといった単純な欲でも、何としてもとか、他を押しのけてわれ先にとなると、それは「欲」というより「貪欲」になって、周囲とのいさかいの元になって、たいへん迷惑です。
さて、そこで質問は、「小欲知足」などと言うが、欲はなくさなくても「少欲」でよいのか? また、「欲」と「貪欲」の違いはあるのか? という内容です。師の答えから得た要点を述べます。

行動を起こさせるこころの機能を「意志」と呼んでいます。初期仏教では、チェータナー ”cetanā” といいます。人間の行動はすべてこころがやらせているものなので、考えることでも、どんな場合でも、行為の前にチェータナー「意志」が働いています。そして意志が働いて、実際に身口意の行為が起こります。ここで、「意志」と「思考」は別もので、意志があって思考が生まれることを、自分で観察して了知しなければなりません。これを混線させると、煩悩の生起プロセスが理解されず、「わかっちゃいるけど、やめられない」の世界から抜けられません。
そして、実際に何かの行為をしても、業(カンマ)”kamma”(習慣力や条件づけのこと)をつくる場合とそうでない場合があります。歩いていてアリを踏んで死なせてしまった場合でも、アリを殺したいという意志がなければ、業は形成されません。しかし、アリを殺してやろうという意志があると、業がつくられます。たとえわずかな意志でも、業になる意志とそうでない意志の二種類があることを、まず知る必要があると思います。生きている以上、業から逃げることはできませんが、善い業になるか、悪い業になるかは、こころしだいのようです。
冥想中にウグイスやミソサザイの美しい声を聞いて、もっと聞きたい、と意志がその方向に動くと業が生まれます。冥想中はこのような意志も野放しにはできません。(と言っても、気づくだけでいいと思います。)普通の人にとって、夕方にお腹が減って食事を食べたいという意志で食事をすることは当たり前のことですが、その当たり前にしていることで業が形成されます。食事を得られなくなると、たちまち憂いや悩みに変化して、苦しむ結果になります。
ニャーナラトー師の話を聞いているうちに、なぜ師が比丘として、在家の五戒に止まることなく、八斉戒や十戒、それ以上の戒を保たれているのか、その理由のひとつが見えてきました。
たとえば、八斉戒は在家仏教徒の五戒のうえに、
⑥午後以降の食事をとらない 
⑦音楽を聞いたり、装飾品など身を飾るものを使用しない 
⑧フカフカの蒲団やベッドに寝ない 以上、三つの戒めが加えられます。
私たちにとって、晩ご飯を食べることは当たり前のことで、その意志にブレーキをかける必要もありません。チェータナーが動いて行動している自覚(気づき)は、ほとんどありません。意志が野放しの状態なのです。
 初期仏教経典スッタニパータ 九七一に、次のような偈があります。
「適時に食べ物や衣服を得て この世で満足する適量を知りなさい 比丘は気づきある者となり、制限を有する道を歩む者となり…」
比丘は、たとえば午後は食事をとらないという制限を受けているので、普通の人がブレーキをかけることのない「欲」にも、制限をかけています。その戒めがあることによって、食べたいというチェータナーが生まれることに気づき、そして「欲のまま」に行動することがなくなります。このように観察すると、戒律が迅速な気づきを促す道しるべになっていることが理解できます。そして、このことによって、自ら輪廻に赴く危険から身を守っていることになるわけです。そうすると、冥想中にウグイスの声を追うことが、苦楽の世界に自ら突き進み、輪廻に赴くことに繋がっている、ということも見えてきます。
結論は、「欲は仕方がない」のではなくて、「欲も野放しにしない」「常に気づきを保つ」ということが「小欲知足」の中味のようです。
「わかっちゃいるけど、やめられない」という世界は、輪廻の世界です。涅槃の世界は、「やめたいことは、やめられる」になるのです。

知る機能の心所
①触  パッサ phassa       触れること
②受  ヴェーダナー vedanā     感覚・感じること
③想  サンニャー saññā    区別・知識
④志  チェータナー cetanā   意志
⑤一境性 エーカッガター ekaggatā  対象に集中する働き
⑥命根  ジーヴィティンドリヤ jīvitindriya 心が生滅変化して生きていること
⑦作意  マナシカーラ manasikāra 認識対象に心を作動させるエネルギー

★聴くこと → 《 正見 》sammā ditthiサンマー・ディッティ
 パーリ語の勉強仲間と師の法話について後日話しました。ある女性は「どんなお話の内容だったのか、あとになって思い出せなかった」と正直な第一感想を述べられました。私は、この人はちゃんとニャーナラトー師の話を聴かれたのだと感じました。
 余談ですが、この女性は私よりはるかに言葉に敏感で、繊細な感受性を持った方です。彼女の聞き方はかつて、単語をすべてノートに写して正確に聞き取るような聞き方でした。しかし、私たちはいっしょに初期仏教の冥想の道を歩んでいるうちに、言葉の限界を知りました。それは言葉の弊害でもあります。聞くことに努力が必要なとき、まさにその努力によって、聞くことが妨げられ、気づきがそらされていることを理解し始めたのです。
ある聖者は、「聴くことは最大の奇跡である。聴くことは真理であり、聴くことが自由をもたらす」と語りました。
聴くことは知りたがることではありません。聴くことは理解することでもありません。私たちが「わかった」というとき、それは既知であり、自分の持っている知識の枠にはまったということです。目の前にコップがあり、「それがコップだとわかった」と言うのは、コップそのものを理解したのではなく、自分の持っているコップという知識を貼り付けたというだけのことです。目の前で起きているすべての現象は未知です。未知を既知で理解することは愚かなことです。

さて、ニャーナラトー師は、当日来られるときに、バス停の時刻表看板が歪んで外れかけているのが気になって、バスの運転手さんに伝えようか伝えまいかと迷いながらも、看板を直してほしいとお願いした話をされました。そして、その自分の行動が気になって…と話が続きました。
私はその話の要点が何なのか、はじめ理解ができませんでした。今でも真意はわかりませんが、私は次のように理解しています。
ニャーナラトー師は、以前私の寺で、次のようなお話をされました。タイの僧院にいたときに、チョコレートの頂きものがありました。一枚残っていて、食堂に置いてありました。冥想中に、「あのチョコレートはまだあるかなぁ」「自分の分も残っているかなぁ」と妄想されたそうです。あのお話も、私は最初その要点が理解できませんでした。私はいろいろな物を所有して、世俗にまみれて暮らしています。テーブルの上のチョコレートのことなどあまり考えないし、ほしくなれば、近くのコンビニですぐに手に入ると思っています。タイの田舎の僧院で暮らし、コンビニもなく、お金にもさわれない、服装は毎日同じ、身を飾ったり、五欲を楽しませるものから離れた質素な比丘の暮らしをされている師のこころの世界を、私が聞いてすぐに理解することには無理があります。 
 アリの行列をときどき境内で見ます。反対方向に進むアリが一匹だけいます。そのアリはすれ違いの瞬間に、前進するアリと頭を突き合わせて、何か会話して情報を伝達しているようです。食料の位置や量、必要な人工などを知らせているのでしょうか。わたしにできる唯一のことは、ただありのままを見ることだけです。アリの会話を聞いて理解することはできません。そのような努力は無駄です。私はそのような瞬間とても幸せです。鳥の声を聞いたり、笹の葉の揺れを見たり、首筋を通る風を感じるように。私は何も知らないし、知らなくてよいという底抜けの安心感があります。
 聴くことが真理です。聴くことが自由です。注意を傾けるための努力などせずに、ただ耳を傾けます。もし私が耳にしていることのなかに真実があるなら、それが自分の内部で革命的な変容を起こします。それは自分の思っていたとおりの変化でもなく、望んでいたことでもありません。自分が「作ったもの」でも、「作られたもの」でもないのです。このようなことが起きるのは、こころが静かなときだけです。私のいない空っぽの世界に波紋のようにあらわれます。知りたい、理解したい、言いたいという衝動で、こころが塞がっているときにはあらわれません。
ニャーナラトー師が語られている「気づきの世界」は、アリの会話を聴くような、とてつもない優しさの世界だと思うのです。「あとになって思い出せない、よくわからない」というのは、人が体験したことのない繊細さで、刹那に耳元を通り過ぎるからだと思います。思考はあまりにもぞんざいで、歯が立たないのです。
この日の法話の全体を通じた主題は、「正見」だったようです。「ありのままを見る」と、私は理解しています。師はperfect perspective 〈 完全なる視点 〉〈 十全に見る 〉といった言葉で説明を加えてくださいました。私の感覚では、努力なく聴く、無選択に聴く、マインドフルに聴く。理解しようという努力が入ると、それはエネルギーの浪費であって、聴くことを妨げます。そうして、ただ聞くという単純な結論に至ります。


◆参加者の感想 N・Sさん
仏教につきましては、あまり勉強しておりませんので難しいことはわかりませんが、先日のお話のなかで、先生が「今の自分の状況を変えたいときは、自分の立ち位置を変えてみるのもよい。そうすると、また新しい視点で見られるようになる」とお話しされたように思います。常に客観的に自分を見つめるように心がけると、やるべきことがおのずとわかってくるように思いました。

◆M・Dさん
ニャーナラト―さんから 白熱(!?)の Live 法話を伺えた幸運はもちろん、様々な意味で大変有意義な一日になりました。なかでも特に感じたのは、お寺っていいなーということ。法話をお寺で聞ける。当たり前でありながら、案外日本ではなかなか機会のなかった贅沢さに浸ってしまいました。研修室やお部屋で伺うのとは決定的に違う、何かとても深く大切なものが「お寺」という空間にあることを実感することができました。違う宗派の僧侶の方も参加されていたこと、僧侶の方々と在家の私たちみんなで一緒につくる車座、忌憚なく疑問や感想を交換できる、自由な暖かさを感じました。また、ご住職のご家族の方も一緒に参加されていたことが、とってもアットホームな雰囲気で。柔らかなお気遣いを感じる度に、ほっと笑顔になりました。外国にいると、結婚が許されている日本の仏教について、いろいろ質問される方にお会いすることがあります。人それぞれ様々なアプローチの仕方がきっとあるのだと思いますが、これはこれで、素晴らしく、他には見つけることのできないような新しい可能性が確かにあると改めて感じられる嬉しい体験でした。それから、私は女性ですので、やはり尼僧の方がお見えになっていたことが、とっても嬉しく、ニャーナラト―さんとの掛け合い問答(?)も大変興味深く伺うことができました。




◆ Y・Nさん 
初期仏教の説く「救いはない」という、我々凡夫にはなかなか受け入れがたい真理に対し、慈しみと優しさと人間味にあふれたニャーナラトー師の存在は、私にとって救いとなり励みとなりました。本当にありがとうございました。

◆ C・Oさん
お坊様というと、そのお役目上、どうしても目線が上からになりがちだと思いますが、様々な質問を向けられるなかでも、とても慎重で丁寧に、そしてご自身のありのままをお話して下さって、日頃から真理に対して、心から真摯に向き合われているのだなと感じました。また、終始とても柔和な笑顔を挟みながらお話されているのが印象的で、ご法話ではその言葉は出てきませんでしたが、「慈悲」そのものを体現されておられました。
瞑想の実践においては、ある境地を目指すことにより、説明して下さった「輪廻」に落ち込んでしまうというご指摘、少しは分かっているとは思います。目指すそのことにより、今ここではない思考のなかに落ち込む、つまりそこに捕らわれ、輪廻を生み出すと言ってもよいのでしょうか? 人間が付けた価値によって。
森のお寺でのアーチャンチャーのエピソードで、蛇がカエルを飲みこもうとする場面、カエルを可愛そうに思っているお坊様に、アーチャンチャーが「Do you take any sides?」と微笑みながら軽やかにお話しされたと、アーチャンチャーの自由さをおっしゃいました。そのお話がとても爽やかに心に残っています。私達がいつもやっている事は、目の前で繰り広げられる現象を自分の物事として受け取る事。自分であれば、間違いなくカエルが食べられる瞬間に感情がブワッと沸き起こると思います。感情全てを否定はしませんが、時に厄介で、感情から自由である事に憧れているのだと思います。ただ、そういった感情から少し離れる、距離を置くだけで良いと。サティの実践を何度もおっしゃいました。これを書いている今「うん…、確かに。それしかないよね」と思う自分がいつつ、「そのままでOK」を本当の意味で承認していない自分がいます。結局「進歩したい自分」なのです。輪廻の中で、試行錯誤したい自分がいます。と言いつつ日々に埋没し、修行には程遠い状況ですが、それでも今は「進歩したい自分でもよい」と思っています。自分が分からない事に考えを持つより、自分に沸き起こるものを大事にしたいと言うのか、上手く表現出来ませんが…。
何度も教えて下さった「ただ、離れてみる」という事は日常の中では本当にとても役に立つし、それは改めて日常で意識したいなと思いました。それにバスの停留所のお話は「よくある、よくある」と共感できて、一番理解の助けとなりました。
本当に貴重な機会を下さって、有難うございました。




◆Y・Fさん
今回私が一番感銘を受け、学ばせていただいたことは、質疑応答の中での事です。様々な質問や意見が出されましたが(私には一瞬緊張しドキドキする場面がありました)、ニャーナラトー長老は終始ニュートラルなご様子で、ニコニコと笑顔でおられたことです。ブッダの教えを体現しておられたニャーナラトー長老の穏やかなお姿は、私にはとても印象深く、言葉で学ぶこととは全く違う次元のものをいただいたような気がしております。そして、ヘビがカエルを食べることや、目の前に倒れているテロリストを助けるというお話の中で仰った「Are you taking any side?」という言葉が印象に残りました。
「どちらかの味方をしているの?」というような意味かと思います。「善悪」などの二項対立の思考に、はまりこんでいること。とにかくそれは、きりがなく終わりのない輪廻の枠の中での繰り返しであるということ。人類の幸福を目指して、どんなに科学技術が発達しても、輪廻の枠の中のことでしかないということ。輪廻の枠というのは、無常・苦・無我に抵抗しようとし続けている状態のことなのかなと思いました。一切の現象はただあるがままで、それを思考・価値判断・言葉に依りかかる所から一歩離れて、ただ観る。自分の感情、感覚に、ただ気づく。という苦楽を超えた道を教えていただいたように思います。



◆ I・Fさん
初期仏教ということは「ブッダ自身は、どのように考え、どのように述べているか」に関心をよせているということだと思います。参加者のみなさんは、意識が高い方がほとんどだと思います。仏教関係の方(僧職)の方もいらっしゃいました。結構、仏教的な専門概念での議論もあって、ちょっと難しいところもありました。私は、仏教を哲学的に理解したいと思って参加しました。哲学的とは、科学的(人文科学的)ということですが、宗教と科学とは違っているのかもしれません。また、「理解」というのにも限界があることになりそうでもあります。そんなことでもいいのでしょうか。アチャン・ニャーナラトー師は、頑なさがなく、ユーモラスで、恥ずかしそうで、とても好感が持てました。お話の中で印象的だったのは、言葉で語り、理解するのだが、言語で表せないものが存在するということでした。抽象的な概念を用いたりするわけですから、確かにあり得ることです。
 ブッダの使ったのはパーリ語だったのか、サンスクリット語だったかは、まったく知りませんが、漢訳するときにも表せなかったり、これは英語文献を訳す時にも起こります。あるいは、ブッダの考えが言語にも表しにくいものであるということなのかとも思います。しかし、言語で表しにくいことで終わらないようにしたいと思います。

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【英知の学び交流会】

3月4日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)

内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

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【みんなの仏教】

3月 11日 土曜日(原則 第二土曜日)・13:30~17:00

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)

内容 ブッダの冥想を実践し参加者一同で意見交換をします。



【京都ダンマサークル】

3月18日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00

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【ブッダの冥想研究会】

3月25日 土曜日13:30~17:30

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

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内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。




 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)

アチャン・ニャーナラトー師の講話 

 アチャン・ニャーナラトー師の講話 
二〇一六年 六月二十六日 NHK「宗教の時間」のレポート  吉水秀樹



この日のラジオ放送を録音準備して楽しみにしていました。しかし、私の失敗で聞き逃してしまいました。あきらめていたら、今年になってネット上で偶然発見して、拝聴することができました。有り難いことでした。
さて、その内容をレポートします。一回では書ききれない深い内容です。ニャーナラトー師は私と同い年です。京都大学の医学部を卒業して、現在欧州最大のテーラワーダ寺院の副住職をされています。そのように聞いて、その輝かしい経歴しか見ない人もいるかも知れません。私の知っているニャーナラトー師は、その経歴から受ける印象とは無縁の人です。そして、私の知る限りで最も腰の低い人です。そもそも師にとって生きることは、「他の生命に迷惑を掛けないように生存する」ことだと本人の言葉から私は受け取りました。森林派の出家者で、ブッダの時代からの伝統を守り、午後の食事を摂らないことや、異性に触れない、お金に触れない戒律を厳守して、現代社会で生きておられます。この修行生活だけで、私は敬礼いたします。
若い頃はだれでも「これだ」というものを見つけたいものです。しかし、それは簡単なことではありません。捨てたものの大きさと、志の大きさと、苦しみの大きさは面白い関係にあります。若い頃の師のタイでの葛藤と苦悩は私には想像もできません。この歳になって、捨てたものの大きさと福楽は比例すると思うようになりました。捨てれば捨てるほど幸福になるのです。すべて捨てた人が一番幸福なわけで、そのような人を阿羅漢というのでしょうか。
さて、講話にはいろいろなテーマがありましたが、その中で私にとって一番強く印象に残ったことをレポートします。
師がタイを離れて、イギリスで暮らし始めた二年目頃のエピソードです。タイでは仏教は文化として受け入れられています。タイで僧侶として暮らすことは、魚が大海で生きるような安心感があるでしょう。しかし、アジア人のテーラワーダ仏教僧がイギリスで暮らすことは、魚が水たまりで生きるようなストレスが想像されます。
ある日托鉢に出かけ街角で立っておられた時に、初老の男性が寄って来られて、厳しい目で、「お前は何をやってるんだ」と聞かれたそうです。「托鉢です」と答えたら、「お前は仕事をしないのか」と言われて、その後「useless」と言い放って立ち去られたそうです。簡単に説明すると「役たたず!」と罵って、立ち去ったということです。
托鉢の時は、肉体的にも精神的にも緊張があり、ゆったりと生きている瞬間ではありません。そこに「役たたず!」と罵られることはキツイと思います。
さて、その後の師のこころの動きが興味深いです。私の視点から書きますが、師はその後歩きながら、「何が起きたのか」そのありのままを観察されたと思います。おそらく僧院では体験したことのない感情の動きあったことでしょう。
師は最初に、自分には人に大切にされたいという思いがあることに気づかれたと思います。そして、それは自分だけではなくどんな人も、やっぱり大事にされたいという気づきに至りました。
その瞬間の正直な気持ちは、やはり優しくして貰いたかったという自分の気持ちであって、それに出会うことで、かなりの苦しみが落ちたと言うのです。
言葉で表現すると何でもないことなのですが、この自分のありのままのこころに出会うことが肝心要です。それは自分や他の生命への優しさであり、この繊細で丁寧な気づきこそが生身で生きる今ここにおいて、最も大切にすべきことなのでしょう。
 さらにこのテーマは深い洞察に繋がっていきます。そもそも、「useful」と「useless」。
「役に立つ」と「役に立たない」この二つの分断が世界を切り裂いています。人を見るときに、「この人は役に立つ」あるいは、「この人は役に立たない」と。「役に立つか、立たないか」という尺度でしか物事を見ない。
あるいはそれが「切り方」になって、常に自分の目線で人を切り裂く、対象を切り裂く。これが今世界で起こっていることだと思うのです。
 「useful」と「useless」の世界が一つの例で、この二項対立の世界が隅々まで広がっているのが、私たちの住む現代社会ではないでしょうか。
「善悪」「勝ち負け」「勝ち組と負け組」「成功と不成功」「手に入る手に入らない」「冥想で、ある境地に入った、入らない」…と。
そうして「これが生きる価値です」「これが真理です」と、自分の見解を持ってしまうことで、そうでないものを否定する。その枠組みに入るものと、入らないものの対立が起こります。これが二項対立の図式です。そして、その対立で苦しんでいるのが、他の誰でもない私自身なのです。
 「自信」という言葉があります。「自らの信」と書きます。それは「自分を信じる」ということでもあります。その自分というものの中味は「私はこういうものを持っている」「私はこのような能力があるから、社会的に価値がある」ということです。
このレベルで自分を見て、人を見て、幸福や人生の意味や価値を見出している。これはたいへん愚かで、恐ろしいことです。
一見社会的な成功を修めた人でも、よく眺めて見れば、失う恐怖や不安に怯えながら生きています。そうして、人生の終局においては、やがて生老病死のなかで、間違いなく「useless」になる恐怖を解決できないで喘いでいます。
 「二項対立を超える」
「自信」「信念」「信仰」、自分の信念を信じるこころのエネルギーの方向を変えることが大切だと思います。「自信」の「自」の部分を「自ず」「自ら」ではなく、努力の要らない「自」、ありのままの「自」、空っぽの「自」に替えると、「ありのままの信」「空っぽの信」にかわります。それこそが冥想であり、結局「ありのままの私」「そのまま」「あるがまま」が肝心要となります。如来という言葉の「タターガタ」も、元はtaであって、「それ」「そのまま」「あるがまま」と同義です。
真実在とは、「useful」と「useless」の二項対立を超えた、あるがままの世界であり、このことが、ブッダの教えの中核なのだとつくづく思います。何を見ても、何に触れても、対象を切り裂くことなく、二項対立の世界離から離れて、ありのままを見ることが、見解を捨ててありのままの知覚にとどまることが、私のなすべきすべてのように思う今日この頃です。


Ajahn Nyanarato

講座案内

講座案内

【英知の学び交流会】

2月4日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)

内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

学びのガイド 正田大観

【みんなの仏教】

2月11日 土曜日(原則 第二土曜日)・13:30~17:00

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp(吉水 秀樹)

内容 ブッダの冥想を実践し参加者一同で意見交換をします。



【京都ダンマサークル】

2月18日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00

場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)

内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観


【ブッダの冥想研究会】

2月26日 日曜日13:30~17:30

場所 浄土宗・羽戸山安養寺(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp (吉水 秀樹)

内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。




 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)