4月8日(日)第七回初期仏教勉強会、4月11日(水)実践冥想会  参加者の感想

4月8日(日)第七回初期仏教勉強会、4月11日(水)実践冥想会 
参加者の感想 ※感想は少々編集してあります。
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   冥想会+ S.A
 「先生」という呼び名から、説明したいと思います。ニャーナラトー先生はたぶん「長老」なのだと思います。「師」であり、「比丘」なのだと思います。あるいは仏典のように「尊者」と呼ぶべきなのかもしれません。でも僕はあえて、「先生」と呼びたい、先生に触れてそう思いました。それは先生が輝くべき経歴、長きにわたる厳しい修行の達成、異国の地での多様な経験ーをお持ちにもかかわらず、なんというかとてつもない「親しみやすさ」を持っているからです。まるで近所のおじさんが優しくアドバイスをくれるような、手習いの先生がそっと寄り添って指差しで教えてくれるような、そんな感じだったのです。これはスマナサーラ長老に初めてお会いした時の印象とは大いに違っていて面白かったです。長老はなんていうか「ロックンローラー」。ブレない孤高の人。
先生はやっぱり「先生」。親しみやすくて頼りになる先輩。それは瞑想指導にも現れていて、やっぱり長老の指導やメソッドはスパッと明快でやることがハッキリしている感じ。対して、先生のやり方はどこか(いい意味で)スキがあって、ゆるくて、おおらかな感じ。まるでタイの田舎に流れるのんびりした空気みたいな。まさに先生の瞑想は”Holiday of heart”でした。
あの一日、僕はのんびりと休暇を楽しむように瞑想ができました。この感覚って今までちょっとなかったです。いままでも瞑想するのは発見に満ちていて楽しいとは感じましたが、心を休ませるっていう感覚はなかった。力を抜くのもどちらかというと集中力を高めるっていう目的のためにやっていた感じがします。
「へえーこういう瞑想もありなんだ」と思うとなんだか心が楽になった気がします。また先生の言葉も心に残っています。
「クラァーイィ」(緩める)というやつ。あれから座る時はいつでも「くらぁーいぃ」と言っています。生活の中で体や心に力が入ってるなと感じる時にも使っています。使っています、と言いましたが、本当は自然と口から漏れ出てくる、そんな感じです。本当に、ぴったり張り付いたネジがゆるんでフワッとスペースが生まれるような、そんな効果がある言葉だと思います(五蘊の想saññaの段階で効果があるんでしたね?)。「手放す」と並んでお気に入りの言葉になりました。ありがとうございます。
 また法話会では世間守護法(lokapāla dhamma )としてのHiri(慚shame)とottappa(愧fear)の説明をしていただき、その役割や作用についてわかりやすく説明していただき、より慚愧に対して自覚的になれたような気がします。またヘイトスピーチなどの話題も出て、具体的にそういったいわゆる「悪」に出会った時に仏教者はどうすればいいのか、などの質問に答えていただき、大変為になりました。本当にありがとうございました。



   冥想会 T.N
 静かな村のお寺の本堂で、ニャーナラトー師のご指導の元、鳥の鳴き声や風の音を聞きながらの瞑想は贅沢な時間でした。歩く瞑想も、まるで先々月に東北タイの森林寺で托鉢に同行した時の様に、静かな山沿いや竹林沿いの坂道を、ニャーナラトー師の後を追って一歩一歩歩くことができ有難いです。
どんな恐ろしく大きな電車がやって来ても、駅のホームのベンチに座って、こころ穏やかに、緩やかな構えで、電車の通り過ぎるのを見届ける、いつかそんな平和な日が迎えられそうな瞑想会でした。
簡単な質問を紙に書きましたが、ニャーナラトー師に話を広げて答えて戴き有難いでした。法話のテーマ通り、心穏やかな、緩まった1日を過ごせました。ありがとうございます。

  冥想会  K.O
・「なにもしない」で居続けた1日は、心も身体も、自分というきつい枠組みも、いつの間にか解けて消えて行くような深い安穏の体験でした。
・歩く瞑想の時、草や木や花や虫や鳥たちと同じになって、自然の中に混ざっていく感覚がとても不思議で心地よかったです。
・一日中、ずっとニャーナラトー師の深い慈愛に守られ包まれているのを感じ、胸がいっぱいでした。感謝しかありませんでした。
・終わってからは、現実とのギャップに戸惑い、すぐには上手く戻れませんでしたが、日常の煩雑な所作でも歩く瞑想の時の感じで取り組めるような気がしています。
・今後も月に一度でもいいので、先日の様な丸一日の瞑想を実践したいと思いました。

  冥想会 T.Y
 瞑想はとにかくやるしかないのだろうなと思っています。師のお話ではっとしたのは、サンニャー(知識・記憶・名前)についても「緩める」ということでした。これは吉水さんがおっしゃっていた、何かを見て「ペットボトル!」と即座に反応して命名することが妄想と気づいて離れることだなと思ったのですが、今まではそれもよくわかっていなかったと思いました。心に浮かぶ想念はすべて、ありのままではない、思い込みなのですね。そこに気づいて、だいぶ楽になった気がします。

   冥想会 C.O
 ここしばらく慌ただしい毎日でしたので、久々にゆっくりと瞑想を楽しむ事が出来ました。歩く瞑想も、いつもお寺で歩くのより長く歩かれて、長く歩くのも良いなあと思いました。二周目あたりから心がより集中した状態にに入っていった様に思いますが、次第に目に映る風景が自分自身から立ち現れている様な感じで、目に映っている物、エネルギーが湧き上がってくるのを感じました。悲しさとはまた違うかんじの、慈悲と言うとおこがましいですが、強く静かなエネルギ―と思いました。でも、あまりそれを追わない様に、あえて集中に入らない様に、ニャラトー師が仰るくつろぐ感じで歩いていました。法話会の方で、ニャラトー師の第一声で「もうこれで十分」というような事をおっしゃっていましたが、私も全く同感です。お寺にいるだけで、完結しているというか、満たされている感があります。今回は、ご質問がえらく少ないとおっしゃっていましたが、皆さん同じように感じておられるのでしょうね。本当にご縁に感謝したいと思ます。

   冥想会 N.M
 沈黙でいることから始まり、座る瞑想、歩く瞑想、朝から夕方まで、本当に心静かな、素晴らしい時間でした。沈黙でいるということは、言葉がないのではなく、逆にもっと心豊かで、濃密である気がしました。言葉では表現できない次元の空間があり、普段は見過ごしている気づきがありました。その中で始まった瞑想は、心が穏やかになると同時にまた、何かにつながるような感覚で、自分の存在と他との境界線がなくなるような不思議な感覚でした。ニャーナラトー師のお話しにあった、駅のホームと通りすぎる電車の話は、わかり易かったです。気づいたことは、いままでは、瞑想の時に、電車が見えたら、ホームに来るなと止めてしまっていたことです。止めていただけなので、それは、隙を狙ってまたすぐにやってきます。今回、電車が駅を通り過ぎていくままに見送ることにしたら、それはもうやってこないことに気づいたのです。
電車が通りすぎて、また次の電車を見送って、を繰り返しているうちに、電車がぱたっと来なくなる時間があって、だんだん静になって行ったのです。心が穏やかになる実感をしました。
最後に話された大切なことが、まだなんとなくとしかわからないですが、物事にセットになっている既存の言葉や感覚、知識から少し距離をおいて、決めつけず、明確にしようとこだわらず、その間合いを大事にするということなのかなと自分では解釈しています。朝から夕方までの長時間、瞑想できるのは本当に贅沢な時間でした。ここまで瞑想すると、本当に心が落ち着いて、穏やかなのが実感できます。貴重な素晴らしい時間をありがとうございました。

   冥想会 S.K
 どなたかの質問で歩く瞑想の話(映画のスクリーン)がありましたが、私自身、昨日は、初めて「景色」すら何も感じる事なく、単なる「色」が目の前に広がってるだけという不思議な感覚になりました。後、当たり前の様に唱えている「回向偈」の意味の深さを教えていただき、毎日、自身が唱えているお経に、そんなつもりはなくても、あってはならない「慣れ」というものがあるという事を感じました。朝夕の本堂での勤行を日替わりで「和文」を取り入れていき、一つ一つのお経の意味の深さを味わいたいと思います。 合掌

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  勉強会  T.W
 今回が初参加で、前回までに出てきた専門用語が理解できるか不安でしたが、今回大変分かりやすく教えていただきましたので、とりあえず一つ「慚愧」という言葉は覚えられました。日々の行いの指針として覚えやすく、心に留めておくべき教えだと思いました。また、ニャーナラトー師の誠実なお人柄と笑顔により、リラックスして貴重な法話を聴けました。大変ありがとうございました。

   勉強会 N.M
 私は、他の参加者の皆さんのように、初期仏教について知識も智慧もまだ持ち合わせていませんが、ニャーナラトー師が平易な言葉で話してくださり、また、言葉の端々に暖かいお気持ちがにじみ、時に、目を閉じて吟味して言葉を選ばれているのが、印象的でした。私は、講話を聴かせていただくのは、2回目ですが、毎回、この上なく上質な癒しをいただけたような安らかな気持ちになります。

  勉強会 T.N
 ニャーナラトー師のいつも優しいお人柄の法話を通して、アマラワティー僧院のアジャンチャーの説くダンマの教えを、京都で聴かせて戴くのは有難い機会と考えています。ダンマの教えが、じわじわと身に着くようです。質問の時間がたくさんあって、その後に個人的に質問する機会も持てるのも有難いでした。いつか、ヒリ オッタパの壁画のあるアマラワティー僧院まで出向いて、短期間でも瞑想修行に参加してみたいと思いました。

   勉強会 T.A
 冒頭に、ニャーナラトー師の関西弁の「もう、これでええやん。」ということに対して感じたことは、吉水さんはじめ、お寺を支え協力される方々の準備、行い、それらによって、この会のそれ相応の結果は自然と現れているのだと思います。私はまずは、そのことに感謝、隋喜致します。
今回のお話の中心は、ottappa 慚(恐れを感じる)hiri 愧(恥を感じる)これらの法で世の中は守られている、dhammapāla(世間守護法)とのことです。
大胆な例でいくと、駅のホームで、おとなしく黄色や白線の前で待っていられることや(恐れ)、それなりの規律で、人が順番通りに並んでいること(恥)、朝からパチンコ屋の前で並んでいるような人もその働きは機能していると思います。物事の法則、決まりを常識的なレベルで守ることで、その人の幸福は守られる。それは渇愛(生存欲、恐怖感)が道徳的に進化したバージョンのようにも見えます。
※渇愛:存在欲、非存在欲、欲愛 こういったことをお釈迦様が説かれるのは世間で幸福に生きることもそうですが、心を成長させ、完成することにこれらは必要な要素なのだと感じました。今回の法話では、自己観察的に、これをしたら恥ずかしいことだなあ、という風に見て、心に空間、スペースを持ってみましょう、そういった時に、一旦停止して踏み留まってみましょう、というようなことを師は仰っていたと思います。
私としてはその空間に、そのようにただ見る日常生活の実践の中に、落ち着きがあり、今ここに気づく隙間ができると思いました。これは知識レベルの話ですが、(kusala、akusala)に関してですが、ニャーナラトー師は善悪という訳について、多少の違和感があったようです。水野先生パーリ語辞書によると、巧みな、善巧という訳があるので、個人的には(巧み、巧みではない)、(上手、下手)というような訳とかでも良いようにも感じました。
釣り針のない釣りの例えについて我々は六処から入ってくるデータに引っかかります。行為の習慣性、自分自身の思考パターン、こうであるべきという先入観、そのようなポテンシャルがあります。感覚器官に触れて、感じることが縁となって、そのポテンシャルが衝動的に結果を出すことになる。妄想、雑念が起きること、そこに、根を張っているのは執着であり、瞑想実践で”釣り針のない”ということは、執着の機能を一旦停止させることにあると思います。釣り針があると、欲の対象、怒りの対象に引っかかります。この例えは釣り針なので、対象は魚などなのでしょう。瞑想実践で感じたことを快であれ、不快であれ、そのどちらでもないものであれ、あれやこれやと考えること、評価したがる、この瞑想方法で良いのだろうか等、妄想、思考することは、因縁がきちんと法則通りに従って働いているということになるのだと思います。釣り針で釣れてくるのはすべて苦しみしか釣れてこず、釣り針自身もただの現象で滝で流れ落ちてできる水の泡のごとく瞬時に現れて消えちゃうものだよと、見たとき、引っかかりは成り立つものなのでしょうか?という感じで私自身は理解しております。
私としては、吉水さんに対して答える形ですが、メールがハッキングされようとも、例え知らない人に読まれたとしても、hiriの精神で、何かしら内容をツッコまれたとしても、それはかえって私自身のネタの肥やしと勉強になります。パソコンのキーボードを叩きつつ、自分の今できることに集中すること、上手(kusala)にしてやろうということには、それはhiriが支えとなっております。そういったポイントが勉強になりました。これからの法話のテーマや内容のネタに役に立って頂ければ幸いです。
sabbe sattā bhavantu sukhitattā 生きとし生けるものが幸せでありますように。

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第六回初期仏教勉強会 講師 ニャーナラトー師 二〇一八年 二月二十八日 於く安養寺

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 主題『縁起と輪廻』に参加して考えたこと、学んだこと 吉水秀樹

基調法話のテーマは「縁起」でした。十二支縁起がぐるりと廻ることを流転(輪廻)とも言えるので、もう一つのテーマは「輪廻」です。輪廻というと、過去生や来世などが絡んで、迷信ぽいと思われたり、わからないことを断定して人を縛る宗教の悪い面を連想されて敬遠されやすいテーマでもあります。
「輪廻」は、パーリ語でsaṃsāraサムサーラといいます。そもそも輪廻には二つの側面があります。一つは輪廻転生で代表される、過去現在未来と大きな時間の流れの輪廻です。もう一つは、実際に今ここで起きている、瞬間瞬間の縁起としての輪廻です。前者は今ここではわからないので置いておき、後者の「今ここで起きていること」という意味において、十二支縁起の解説から法話が始まりました。
「今ここで起きていること」とは、「繰り返すこと」であり、「またやってしまった」「やめたいけれどやめられない」ことであり、身近な人間関係において、「言わなくてもいいことをまた言ってしまった」など、今ここで繰り返していることを「輪廻」ともとらえることができます。別の角度から見ると、「依存すること」も輪廻の一面であり、「アルコール依存症」を例にして、十二縁起の説明をされました。

 最初に、仏教用語の説明を簡単にしておきます。関心のない方は飛ばしてください。
★縁起とは、「縁りて起こる」ことです。「輪廻」を説明するものが縁起とも言えます。
★輪廻とは、パーリ語のsaṃsarati サムサラティ という動詞からできた言葉です。元の意味は、回転する、廻り回る、流転する、輪廻するなどです。
★十二支縁起  無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死
①無明avijjā 真理を知らない・三相(無常、苦、無我)を理解していない
無智・ありのままを知らない・間違った考え
②行saṇkhāra 行為の習慣力・形成するエネルギー・意志・感情・心が蓄積したすべて
③識 viññāna 認識する・対象をはっきり知る・見ること・聞くこと
④名色 nāmarūpa 心と身体・精神と物質・身体と心の生命
⑤六処 salāyatana 六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)
⑥触 phassa 対象との接触・六根と六境の接触
⑦受 vedanā 感覚・「苦」と「楽」と「不苦不楽」の三つ
⑧渇愛 taṇhā 欲があらわれる、喉が渇いたように対象に触れたくなる欲望
⑨取 upādānā 執着・固執する・対象と自我に執らわれる
⑩有 bhava 生命の生存エネルギー・
⑪生 jāti 再び生まれる・出現・すべての蘊の生起
⑫老死 jarā maraṇaṃ 老と死・一輪の結果・憂い悲しみ怒り苦悩・一つの蘊の消滅
 さて、この十二支の縁起は、輪廻転生という大きなスケールで見るよりも、今ここで起きていることと見る、つまり私とあなたの日常で起きているできごと、いえ、まさにこの世で生きていること自体が十二支の縁起であり、輪廻であることを理解したいものです。
 このことはとても大切なことです。何故なら、そもそも仏教は幸福に生きるための教えであり、苦しみの連鎖である輪廻から抜け出ること(解脱)を根本的な目的としているからです。
 ひと言で言うなら、輪廻からの解脱こそが仏教の根本原理なのです。そして、それは常に今ここにあり、今ここでなすべきことです。解脱のキイワードは「今ここ」だと私は思います。

 ニャーナラトー師は、アルコール依存症の人を例にして、十二縁起のメカニズムの概略を解説されました。
アルコール依存で問題を抱えている人が歩いていたとします。そこにお酒の看板がありました。アルコール依存などに全く関係のない人にとっては、眼に留まることもないかもしれません。眼に入ってもただの看板で何の感情も湧くことはありません。しかし、アルコール依存症の人にとっては、事態の展開が違うのは誰でも想像できます。
実際に起きるであろうことを時系列で追ってみます。この場合⑥の「触」から考えてみましょう。「触」とは、対象に触れることです。歩いていたら、その人に「看板」(対象)が「眼」に触れたのです。その「見る」という出来事は、本当は三つの要素が「縁りて起こる」ということです。三つとは大ざっぱに言うと、「対象」と「眼」と「意識」の三つです。
「対象」とは看板という物質、「眼」という身体の機能と「意識の働き」の三つです。
 アルコール依存に無縁でお酒に執着のない人がお酒の看板に触れた場合、仮に看板を認識しても、感情は生まれません。触れても対象として認識しない場合もあります。例えば正確に「アサヒビール」とか、「ワンカップ大関」と認識しても、感情が現れず記憶の痕跡を残しません。
 しかし、これがアルコール依存症の問題を抱えている人なら、結果は違います。対象に触れて、流転が始まり、⑦の「受」感覚が生じます。彼の場合、「楽」つまり、いい感じ、ここち良い感覚が生まれます。「こんなものを見てはいけない!」と思うのは、時系列ではもっと後のことで、最初に現れる「受」は「いい感じ」「好き」、すなわち「楽・快」です。これが「欲」を生じさせます。
さて、なぜ彼にはこのような感覚が生じたのでしょうか? これは当然ながら、彼の過去の行為に関係しています。この過去の行為のことをカルマ・業とも言いますが、ここでは②行saṇkhāraという言葉に注目してください。②の「行」の説明に、「行為とその習慣力・形成するエネルギー・意志・感情・心が蓄積したすべて」と書いてあるのを見たら、なんとなく理解できるでしょう。
そして、自分の②行saṇkhāraに沿った、③認識が生まれます。「酒や!」これは、見ることや聞くことですが、アルコール依存と無縁な人の「お酒」という認識とは自ずと違います。
すこし省略して、次に⑧の渇愛の辺りから話をすすめます。この辺りからは自分でも明確に意識されて、葛藤を生みます。渇愛は、喉が渇いたように対象を欲しがる欲望で、どのような状態かは解説は要らないでしょう。後は坂道を転がり落ちるように、実際の行動が起こり、「また、やってしもた!」という⑫老死に至ります。アルコール依存症の場合だと、「やってしもた」ですが、趣味のスポーツや好きな勉強なら、「やった!」という達成感や幸福感も、表裏一体をなし、⑫の老死、「憂い悲しみ苦しみ」だという点に注意してください。
そうして、一つの連鎖(輪廻)、蘊が終わったのですが、これは本当には終わっていません。さらに、次の行為と習慣力を形成するエネルギー、②行saṇkhāraをさらに強めたということになります。
凡夫である私たちにとって、⑫老死は衰退と消滅であり、こころの奥に潜んでいます。勝った負けた、儲かった損した、など表裏一体となっていて、結局のところ生を脅迫し圧迫します。そういう意味で、⑫老死、蘊の消滅とは、憂い・悲しみ・怒り・悩み・苦しみに他なりません。これを「苦」dukkhaと呼んで、「このようにして一切の苦蘊の集起がある」と結論されます。このような苦しみの連鎖を日々、瞬間瞬間に繰り返し、苦しみの生存が続くことを「輪廻」と呼んでいます。そして、それを説明するものが「縁起」です。つまり、私たちがこの世の喜怒哀楽を受け入れて暮らすことが輪廻です。仏教とは、この世(此岸)を超えて、彼岸に至ることですから、輪廻から解脱することが仏道なのです。

 さて、ニャーナラトー師は、縁起の十二支には二ヶ所の注意すべき重要な点があると話を続けられました。二ヶ所とは、①②の『「無明」に縁りて「行」が生じる』と、⑦⑧の『「受」に縁りて「渇愛」が生じる』の二ヶ所です。
この二点のうち、まず誰にでもわかりやすいのは、⑦の「受」(感覚)のあたりです。お釈迦さまの説かれた仏道修行として「冥想する」、「気づく」「マインドフル」「目覚める」「ヴィッパッサナー」と呼んでいるのは、すべてこの⑦の「受」(感覚)への「気づき」が起点です。これは言葉をかえれば、唯一「今ここ」にあり、実際に何とかできるものだからです。今この瞬間も皆さんは「感覚」を受けています。いつでも、そこが原点であることを静かに自覚してください。そして、アルコール依存症の人の例で示したように、彼が看板に「触れ」て「感覚」を受けるところからストーリーが始まります。

⑥⑦の「触」と「受」のからみで説明しましたが、「感覚」が生まれるのは、「対象」と「眼」と「意識」の三つが、「縁りて起こる」ということです。面白いことに、このときの「酒や!」という「識」(意識)が生まれるのは、彼の過去の行為と習慣力に起因しています。
つまり、十二縁起の
★①②③→「無明・行・識・→」は、時間軸では過去に相当し、そもそも「知る」ことはすべて過去の知識と記憶に縁って現れます。
★⑥⑦⑧→「触・受・渇愛・→」は、現在であり。
★→⑩⑪⑫「→有・生・老死」は未来、これから起こることと理解できます。
そして、「今ここ」で気づくことができるのは、⑦の「感覚」です。ですから、仏道修行とは、「感覚に気づくこと」であり、それがヴィッパッサナー冥想の中核であり、マインドフルネスとは、そのことを言っています。また、言葉をかえるとある聖者が語った「感覚で終わらせる」「記憶の痕跡を残さない」なども、すべて⑦の感覚に気づくことであり、それこそが苦しみの連鎖である輪廻からの解脱をも意味しています。
 次に、テーラワーダ仏教の日常経典にある、『因縁の教え』【減観】paṭicca samuppādo paṭilomaṃの最初と最後のフレーズを見てみましょう。
「無明こそが、余すことなく離れて滅することに縁って行が滅する」…
「このようにして、すべての苦蘊の滅がある」と書かれてあります。

 日常の冥想実践としては、★⑥⑦⑧→の「感覚」に気づくことが肝心であることは、言うまでもありませんが、そこに終始していたのではモグラ叩きを延々と続ける結果にもなりかねません。そこで、ブッダの言葉『無明こそが、余すことなく離れて滅することに縁って、すべての苦蘊の滅がある』を静かに理解してください。なるほど、「感覚」の「気づき」は大切ですが、言い換えればこれ以上、悪事を重ねないこと、これ以上悪くならないこと、対処療法としては最上ですが、根本の解決には至り難い面があります。そこで、悪の親玉である、★①②無明と行のからみの無明を根絶すれば、もう苦しみの連鎖は起こらなくなります。
 私の質問に対して、ニャーナラトー師は答えられました。じつに師が繰り返し、語られてきた、”doing nothing”「なにもしないこと」「釣り針のない釣り」とは、この無明と行とのからみのことだったのです。
 思えば、初期仏教の冥想に出会う前の私は、慈しみの欠片もありませんでした。この世に生きる生命としての基本の道徳sîlaシーラも知りませんでした。そうして、私は自分の「間違った考え」(無明)の訂正から、一歩ずつ仏道を歩んできたと思います。今では小さな虫を殺すこともできなくなりました。お金や車や着る物など、物欲は著しく減り、興味もなくなってきました。宴会や社交が苦しみと見え、何かになりたい、何かでありたい、名誉はもちろん、安心安定や幸福を求めること自体が苦しみと見えるようになりました。今、いちばん幸福を感じることは、朝にお堂に坐って、「なにもしない」ことです。毎日こころを汚している私ですが、一時間ほど坐れば、電話にも反応しなくなります。釣り針のない釣りをするのが、いちばんの幸福と感じるように、こころが成長してきたと思います。
仏道は、マインドフルネスなどという、ブッダの教えから切り離されたひと言で言い表せる薄っぺらなものではありません。私たちの周囲には先達が書いた仏道を解説した書物があり、ニャーナラトー師のような敬礼すべき師もいます。しかし、彼らが私たちに何かしてくれることはありません。彼らが私の輪廻を止めてくれることがないのは明白です。自分の身体を使って自分の意志で、自ら好んで流転していることに気づかない限り、その苦しみの連鎖から解き放たれることはないと思います。


ニャーナラトー師は、テーラワーダ仏教の世界では、三月の初めが、『七仏通誡偈(ひちぶつつうかいげ)』を読む時候だと話してくださり、縁起の法話の総括として、その内容を簡潔に説明されました。七仏通誡偈は、短い偈ですが、ブッダをふくめた過去の七佛が皆同じことを語ったという深遠な偈です。なるほどあらためて傾聴すれば、その通りだと納得しました。

七仏通誡偈  dhammapada No,183 法句経
『諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教』

Sabba(サッバ) papassa(パーパッサ) akaranam(アカラナン)    もろもろの悪を犯さないこと
kusalassa(クサラッサ) upasampada(ウパサンパダー)    善を具足すること
Sacitta(サチッタ) pariyodapanam(パリヨーダパナン)   こころを浄らかにすること
etam(エータン) buddhanu(ブッダーヌ) sasanam(サーサナン)   これがもろもろのブッダの教えです
  縁起のおしえ paṭicca samuppādo 順観 Anulomaṃ
無明に縁って行が生じる。行に縁って識が生じる。
識に縁って名色が生じる。名色に縁って六処が生じる。
六処に縁って触が生じる。触に縁って受が生じる。
受に縁って渇愛が生じる。渇愛に縁って固執が生じる。
固執に縁って有が生じる。有に縁って生が生じる。
生に縁って老、死、憂愁、悲泣、 苦しみ、悩み、落ち込みが現われる。
このようにして、このすべての苦蘊の生起がある。

  縁起のおしえ paṭicca samuppādo  減観paṭilomaṃ
無明こそが滅することに縁って行が滅する。
行が滅することに縁って識が滅する。 識が滅することに縁って名色が滅する。
名色が滅することに縁って六処が滅する。六処が滅することに縁って触が滅する。
触が滅することに縁って受が滅する。受が滅することに縁って渇愛が滅する。
渇愛が滅することに縁って固執が滅する。固執が滅することに縁って有が滅する。
有が滅することに縁って生が滅する。生が滅することに縁って老、死、憂愁、悲泣、
苦しみ、悩み、落ち込みが滅する。
このようにして、このすべての苦蘊の滅がある。


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ダンマサークル 黄檗道場 2018年2月17日 参加して 吉水秀樹



『思考妄想を事実として念じていたら、一生かけても真実に至ることはありません。』

 たまたま話の流れで、私がヴィパッサナー冥想の本質は「感覚で終わらせること」で、それは「音音音」と実況中継し、「カラスカラスカラス 車車車」と命名することではないという意味の発言をしました。そしたら、参加者の一人が『「カラスカラスカラス」でもいいじゃないか、それは事実なんだから…』といった発言がありました。私は、それはよくないなぁと思ったがその場では何も言いませんでした。説明が長くなったり、主題から外れては不味いと思ったからです。

 冥想中に音が聞こえても「カラスカラスカラス」と実況中継していたら、多分思考の世界からは一歩も出られないと思います。それは事実ではないからです。俗世間ではカラスの声が聞こえたら、「カラスが鳴いている」として、それは事実としていると思います。同じように車が道路を走る音が聞こえたら「車が走っている」ということが事実になっています。
 これらは世俗諦であって、聞いたこと、見たこと、考えたことも全部事実として認識しています。シリア軍が空爆して子供たちが死んだと報道があれば、それは事実として認識されます。しかし、私が聞いてそう思った以外に何の根拠もない場合がほとんどです。ヴィパッサナー冥想では、このような思考はすべて妄想と位置づけられます。これらに対して今ここで、明確に確認できることだけを観察するのが、ヴィパッサナー冥想の本質です。

 もし、思考妄想を事実として念じていたら、一生かけても真実に至ることはありません。

 仮に本当にカラスがいて「カー!」と鳴いたのだとしても、私がその場で聞いたのはただの「カー!」であり、それは音です。その音を聞いて、過去の記憶と知識から「カラス」という想念が生まれ、「カラスが鳴いている」という思考が生じます。そうして、自分が考えたことと事実を混線させて、思考を事実としていたら、何時までたっても、思考の世界から出ることがなく、気づきの冥想にはなりません。
 今ここに住して、嘘なく観察できるようになれば、感覚で終わらせることの意味がわかるようになると思います。想念は想念として放っておいて、今ここに住すれば「音」以外は何もありません。「音」以外は「私は知りません」というのが真実です。「知っている」ことはすへて、過去であり知識です。何かを知ったとすれば、それは既知の何か、過去の何かです。
 命名や名称は便利な道具ですが、このような過去を含んでいるので厄介です。冥想では、五蘊の動きがあるのは当然です。それらに価値づけせずに、ただ淡々と観察できるようになれば、想念はただの想念で、感情はただの感情、思考認識はただの思考認識として、生じては消えてゆきます。そうすると、始まりが「感覚」で、「感覚で終わらせる」の意味が体得できると思います。すべて、放っておくことが基本で、放っておくと、感覚だけが観察されるようになると思います。それが「楽」sukha(幸福・安楽)だと思います。
 世俗諦と勝義諦が混線している人には、難解なテーマだと思います。

追伸 
今朝本堂の北側の六畳の方丈で冥想をしました。寒かったのでエアコンを25℃の静音に設定して坐りました。お堂と違って、外の音はジャット機の音か大型ダンプのクラクション以外は聞こえません。エアコンの音だけが聞こえていました。冥想を始める段階では、「エアコンの音がしている」というのは事実と言えます。しかし、一旦眼を閉じて坐ったら、「音」だけがあります。エアコンの音というのは、記憶であり過去です。一時間ほど坐りました。その時に音を聞いてみたら、それはもはや「エアコンの音」ではありませんでした。

 こころが静まって、明確に感覚を観察するようになると…。室外機の音、ファンの回転音、パネルに風が当たる音、少なくとも三つの音が重なって、「エアコンの音」としていたことに気づきました。
 明確に見るようになると、「エアコンの音」という名称観念ではなくて、幾つかの縁起が複合して、「音」が現れては消えていることが見えます。そして、その細かい見解のどれもが、事実ではなく私の思考です。どんなに細かく観察しても見解はやはり、見解であって、真実ではありません。「音」という、エネルギー・波動を感じていることは事実だと思いました。


カラス
カラス2

冥想と空間 Ⅱ

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 ★絶対空間はあるのか? 
 自分で考えてみてください。私たち人間は基本的に絶対空間があると考えて生きています。毎日同じ住所に帰って来て寝るその場所は絶対にあると思っています。確かに地球上の日本の家屋の位置は毎日変わったりしません。しかし、これは地球という惑星の特殊な重力場で起きている希なできごとです。本当は私たちが今いるこの場所はたった1秒間に、地球の自転で約500m、公転で約27㎞の移動をしています。ジェットコースターの中に家を建てているような状態なのですが、このような実感は全くありません。認識できないからです。しかも、アインシュタインの発見以後になって、その宇宙空間の時空、時間も空間も歪んでいることが証明されています。
 最もブッダは2500年も前に、「無常」を観察して既にこのような事実を了知しておられたようです。つまり、空間はあったとしてもそれは変化しているもので、固定してあると見ている私たちの見ている世界は幻覚なのです。つくられたものです。
“sabbe saṅkhārā aniccā” 「すべての認識できるものは変化している」
とはそのような意味で、空間が幻覚であるという意味が含まれています。

 私たちの思考の世界ははじめから幻想でつくられています。人間の幾何学の世界では、点や直線を認めています。1+1=2も認めています。
点は面積がないのですが「・」認識する点には面積があります。点と点を結ぶ線を直線と呼んで、「 ―― 」にも面積がないのですが認識している限り面積があります。そもそも時空が歪んでいるので直線は存在しません。「1+1」と「2」は見ただけで違うのに同じと認識します。つまり、私たちが世界と呼んでいるものは、人間の妄想で組み立てている世界です。

“sabbe dhammā anattā”「すべての認識対象には実体がない」
とブッダが語っているのはそのことです。

 ヴィパッサナー冥想では、思考を離れてこれらの真相を観察します。過去の記憶や、時間や思考を捨てることが、ヴィパッサナー冥想での思考の要らない直観です。
 まず、見ている世界、空間を疑って見てください。

 ところで、私は何時もベランダで洗濯物を干します。そのベランダの空間を認識しているのですが、昨日冥想でそのベランダの空間を思い出したとき、物干しの竿が何本あるのかわかりませんでした。毎日見ていて、さっき干したのにわかりません。また、その竿がどのように天井から吊るされているのか全く記憶にありませんでした。見ている世界が幻想なのは本当です。世界が無いのではなく、私が勝手に作った世界を見ているだけです。

 アビダンマでは、実際に実在するものは、「こころ・心所・色(エネルギー)・涅槃」の四つだと説かれています。まだ、私にわからない世界ですが検べてみたいです。

銀河

冥想と空間

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 ★当たり前にとしているものに疑問をもつ
 日頃、当たり前として感じている空間について疑念が生まれて、空間について考察しました。
 まず、物理的な空間はあります。今朝お堂で、三人で冥想していました。私の左に一人、右に一人が坐っています。このような空間は物理的な空間として一応あるとします。問題は心理的な空間です。簡単に言うと、眼を閉じた時に空間はどうなっているのか? という問いかけです。そんなものあるに決まっていると考える人には理解できないと思います。
 眼を閉じて、手の感覚を感じたときに、左手、右手と感じて左右の距離を感じ、空間が現れます。さて、これは妄想なのか実相なのか? 最初は検べ方がわかりませんでした。何か他の思考が始まったとき、例えば「昼ご飯は何にしようか?」と、この瞬間は思考の世界にいるので空間はありません。このことを理解できる人は少ないかも知れません。認識しない限り、認識の対象が現れないのは、本当は当たり前のことです。眼を閉じたら少なくとも私の前に居るであろう人は認識できません。記憶として「私の前に人がいる」という思考は生じても、それは少し前の過去の記憶で、実相ではありません。

 ★音を聞いた瞬間に空間が生まれる(対象に触れて感覚が現れた瞬間)
 冥想中に灯油販売の車が「たき火歌」の音楽を鳴らして移動していました。寺の直ぐ下の道を通過して、音源が移動している様子を感じました。このとき、空間が現れます。私はなくて、音がダイナミックに移動しています。お腹の膨らみを観察していたら、膨らみの動きの感覚位置が前後にゆっくり移動しています。このとき、空間が現れます。空間が現れたときに私はありません。暖かい手袋をはめて冥想をしていました。最初手袋が存在していると思っていました。一時間冥想をして、身体がピタリとも動かなくなったとき、手袋は見つかりませんでした。手の感覚はあるのですが、手が微動もしないので手袋に触れる感覚がありません。このとき手袋は見つかりませんでした。(手袋があるというのは妄想思考です)

 ★日常の空間は妄想であった
「音」(sound)がとても大切です。耳を傾けるとは、人の話を聞くのではなく、言葉の音を聞くことです。そのときはじめて、音は空間を持っていて、音を聞くためには空間がなければなりません。言われていることを何時も自分の偏見や快不快の条件づけられた思考習慣で翻訳しながら聞いているなら、そのときその人はまったく耳を傾けてはいません。実はそのとき空間も無いのです。日常の空間が幻です。手を切ったりぶつかったりするのはその現れです。日常は明確に見たり聞いたりせずに、「あったはずという妄想の空間」で暮らしているのが真相のようです。冥想で直観した私のない(言葉のない)世界が実相空間だと言えます。
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