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『ダニヤ経』出版のお知らせ

 
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聖号 日頃はネット上ではありますが、私の記事を読んでいただいて、有り難うございます。 
 さて、拙僧はこのたび、二冊目になる著書を制作し出版いたしました。
今回の作品は、お釈迦さまの教えをより多くの人々に知ってもらいたいと願って、わかりやすい文と挿絵を入れた、総80ページの大人が楽しめる絵本のような作品にしあげました。 絵本と言っても、題材は初期仏教経典スッタニパータにある『ダニヤ経』をとりあげたもので、ブッダの教えの真髄を説くものです。
 挿絵は、同じ浄土教の僧籍をもち、近年興福寺の柱絵を建柱された日本画家の畠中光享先生に依頼して先生の過去の作品もつかわせて頂き、多くの人に楽しんで読んでもらえるように企画立案し、この度完成いたしました。
   どうぞよろしくお願い申し上げます。   
                                           吉水秀樹 拝

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第八回初期仏教勉強会 レポート その三 吉水秀樹


 毎回のことですが法話会の終盤は突っ込んだ話になります。私自身が一番尋ねたい日頃の冥想修行での微細な質問をするので、必然的にそのような流れになります。このレポートはすべてそうなのですが、特にここからの話は、私の見解として読み流してください。

 法話会の終盤は、「識」viññānaヴィンニャーナに関する質問から縁起の話になりました。ニャーナラトー師は、何度も言ってきたことですと前置きされて、私たちは『見たいものしか見ていない』ということについて説明されました。これはブッダの冥想で目指す『ありのままを見る』の対極にある、私たちが慣れ親しんでいる日頃の見方です。
 前に説明のあった、アルコール依存の人が、散歩していてお酒の看板を見るのと、普通の人が見るのとの違いを例に説明されました。
 そこで『行』saṅkhāraサンカーラの問題に行き着きます。わかりやすく言えば、過去の行為の結果で「飲みたい」「酒が好き」といった貯金が溜まっている場所がsaṅkhāra「行」です。習慣力とか形成力とか、こころが経験したすべての感情の溜まる場所であり、ここでは広くは「業」カンマkammaと理解しても間違いではないと思います。

 アルコール依存の人の話だと人ごとですが、私たちが毎日していることです。先日ふと、すき焼が食べたいなぁと思いました。そのときに気づいたのですが、その思いは実は、前々日にテレビ料理番組で松茸入りのすき焼の調理場面を数秒見ました。そのときに「美味しそう!」と心理的な記憶が残ったこと。さらに、昨日の夕方自転車に乗っていて、牛脂とお酒と砂糖と焦げた醤油の絡んだ、すき焼の臭いを嗅いだときに、今言葉で言った通りの妄想をして「旨そう!」と感じたこと。
 どちらも数秒の出来事ですが、この二つの心理的な記憶が「行」を形成して生まれたものでした。私はけっきょく「すき焼を食べる」という行為には行き着かずに、これ以上習慣力が溜まることはありませんでした。しょうもない話ですが輪廻をくい止めたのです。
 視覚と嗅覚に触れて、私がすすめて業・行(心理的な記憶)を残していたのです。べつに道徳的に悪い行為ではありませんが、これが輪廻の仕組みに違いありません。

 もう一つは、毎朝坐る冥想を一時間以上修していますが、ニャーナラトー師が来られる当日の朝も坐っていました。すると、山門石段の落葉は掃いたか、部屋の掃除は済んだか、お茶の用意や、迎えの時刻は、質問用紙は、来客に出すほうじ茶は…、とひっきりなしに妄想が浮かびました。一時間も坐ればこれらの表層の思考はなくなりましたが、普段よりこころの鎮まりが明らかに遅いと感じました。
 長老を迎えて法話冥想会をすることは善行為だと私は思っていますが、善行為であろうが、善悪に関係ない行為であろうが、そのことに執着することが苦しみです。
 冥想での境地や心境、禅定に価値を入れる、執着することは、輪廻から解脱ではなくて、輪廻を強める行為になります。
 ニャーナラトー師が教えてくださった「なにもしない」doing nothingは、冥想の境地や喜悦を求めることもないという意味です。この理は冥想者がこころの底から理解していないと、素晴らしい体験をしたときに、必ずその体験そのものが執着になります。さっきのは何だったのだろう…? とか言葉は一見やわらかくても、それが執着の現れであり、あらたな行saṅkhāraを形成しています。
 
 日頃私たちは眼をひらけたら、対象に触れます。そのときに、対象に向かうこころの動きがあります。一つの世界から自分の好きなものを切り抜いて言葉にします。ペットボトルとか、コップとか。一見何気ない当たり前のことのようですが、外の世界の実相は一つであり、そこには何であれ対象は存在していません。ブッダの言葉では、「内にも、外にも、何であれ対象は存在しません。」と明確にスッタニパータにあります。
 
 あるがままに見ている者には対象がありません。「ある」とするのは、我のある者の分別思考です。そうして、対象を対象化して、切り抜いてコップと命名して、自分から行に入って、苦楽を受けています。
 未熟な私ですが坐ってこころが落ち着いているときに、対象化しない世界を垣間見ます。無明から行が起こりますが、(無明とは智慧がない、真理を知らないという意味)そこで智慧があらわれて、対象に向かう習慣力(行)を生まない。 無明→行の「→」が途切れます。これが輪廻からの解脱のメカニズムだと思います。「→」を繫ぐことが普通に生きることなので、生を超えることになるのだと思います。

 ニャーナラトー師は最後に、「生じては滅する」と観察しなさいと仰いました。芭蕉の句を引用して話されました。芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」と詠ったとき、対象を追うこころは静まり、世界と一つで、そこに我がなく「生じては滅する」、ポチャンという感受だけの世界があったのではないでしようか。

縁起
グラス
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第八回初期仏教勉強会レポート 吉水秀樹  NO、① 法話編   平成三十年 十月十三日 安養寺



・敬鳴 一通三下 
・警覚偈 謹んで大衆に白す
「生死は事大にして、無常は迅速、おのおの目覚めて、
 怠ることなく、気づきを保て」
・入堂 三拝
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警覚偈


 ニャーナラトー師の法話は、ある女性の質問に答える形ではじまりました。その女性はごく最近に伴侶を亡くされました。残された自分の人生、生老病死とどのように向き合って生きてゆくべきなのか? といった質問です。

 師が最初に話された言葉は、パーリ語のサムヴェーガsaṃvega でした。サムヴェーガは、直訳では「怖れおののくこと」です。英語では、a sence of urgency. です。
つまり、人生で生老病死に突然出会って、緊急・緊迫状態になり、普段の感覚から醒め「このままではだめだ!」と感じ、真理を求道する切迫したこころの状態をいいます。

 私は僧侶で、年間に何十件という葬儀告別式の導師をします。私が見てきた経験からしても人生で一もっと悲しい出来事といえば、共に生きてきた仲良い伴侶を亡くすことだと思います。しかも、このような事態が急に訪れた場合、たいてい人は顛倒します。日常の何気ない習慣的な行為のすべてが意味をなくしてしまいます。食べることさえその意味や喜びが消えてしまうこともあります。そのような時に人はあらためて、人生とは何だろう考えざるをえません。

 イギリスの寺院にある裕福な在家信者がおられて、人生を謳歌しながら仏教徒として生きておられたそうです。その方がステージ四の末期癌と診断されました。それまで、旅行やテニス・コンサートと余生を楽しんでおられたのですが、もうそんなことをしている時間はないという状態になられたそうです。このような時に人はどんなことを考えるのでしょうか?

 ☆人生の本質は何か?
 ☆一番安全で正しい生き方とは何か?
 ☆輪廻のなかで残るものは何なのか?

といったことではないでしょうか。しかし、日頃から仏道を学び修行を積んでいない人がこのような問いかけを急に自分に向けても正しい答えが直ぐに得られる訳ではありません。
 ここで多くの人は迷いの道に入ってしまいます。迷いの道とは、言葉を変えれば何かにしがみつくことです。おおかたそれは五蘊への執着と言えます。五蘊を自分だと思い、そこに生き甲斐を見出そうとするのです。

 五蘊とは、色と受想行識です。

一、 「色」とは肉体のことです。健康な身体に執着することです。しかし、身体は遅かれ早かれこの世に捨てて行くものです。健康や身体に執着することは惨めです。

二、 「受」とは感覚のことです。自分の感じ方を大切にしますが刻々と変化する無常なものです。

三、 「想」とは記憶や知識・言葉のことです。これこそふだん私としているものです。しかし、知識や記憶に安らぎを求めても、刻々と消え去り実態のないものです。

四、 「行」とは感情や志し意欲のことです。このようなものも普段は大切ですが、こころの安らぎどころか欲の源のような不安定なものです。

五、 「識」とは、思考・認識のことです。考えることは大切ですが、思考には限度があり、思考そのものが条件づけられています。思考の中に自由も安らぎもありません。

 仏教では、自分のことを五蘊と見ます。ふだんこれが、私と呼んでいるものの正体ですが、五蘊の何処をさがしても安定した確かなものなどありません。これを五蘊皆空とか一切行苦というのでしょう。
さて、それでは本質はどこにあるのでしょうか? このような問いかけの答えは言葉のなかにはありません。それを知るのが冥想であり、日頃の行です。
 もし、日頃の冥想の成果で五蘊のなかに自分はない、五蘊のなかに生き甲斐を見つけることは愚かで、それはできない。自分の精神状態の変化で、真実の幸福は得られないと知っていたら、この問いかけの意味が違ってきます。

 そこで、師の答えは実にシンプルです。残された人生で自分のなすべきことは、「正しく善く生きる。」ただそれだけであると。しかし、その言葉はこころの浄らかさそのものを意味し、小学生でも知っている言葉ですが、聖者やブッダの生き方でもあります。
サムヴェーガとは、けっきょく残された道は、「正しく善く生きる。」実にこれしかないとうニュアンスを含んでいます。

 いつも、法要法話の前に私は裏堂で涅槃経にある警覚偈を読みます。ブッダの最後の言葉と言われている偈です。それは漢訳すると「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸」となります。パーリ語に注意して訳せば、「すべてのものは壊れて行きます。不放逸(気づきを怠らず)に成し遂げなさい。」となります。
 この日は、初めての方もおられるので、訓読みで以下のように読みました。

『謹んで大衆に白す 生死は事大にして、無常は迅速、おのおの目覚めて、怠ることなく、気づきを保て』と。

 ニャーナラトー師はこのような日本仏教の習慣や偈をご存じなかったようです。裏堂の横の控室におられた師は、私の唱えるこの偈を聞いて途中でハッとされたらしいです。それは、偶然というか必然なのですが、今日の法話のテーマ「サムヴェーガ」の中味そのものを読んだブッダの偈でありました。
 警覚偈は、日本仏教では広く読まれている偈ですが、特に修行中の朝の目覚めの刻に版木を叩いてから唱えられます。修行僧はこの偈を聞いて眠たい目を醒まして一日の始まりになります。

 親しい人の死に出会い、自分の生老病死を目の当たりにする。このようなことは誰もけっして望むことではありません。しかし、このような避けられない無常に出会ったとき、人の価値観は根本的に変化する可能性があります。廻心・厭離心・宗教心というのでしょうか。それが、まさに目を醒ます瞬間です。
 お金や地位名誉や物財など、目に見えるものは、どれもこの世に捨てていくものです。目に見えないものに真実があることに気づき、相対する世界を離れて絶対に目覚めゆきます。それが、正しく善く生きることなのではないでしょうか。

 法話の後半、師がいぜん四国八十八ヶ所を歩かれ、一遍上人のゆかりのお寺に参られ、その寺で出会った一遍上人の言葉を話して下さいました。ニャーナラトー師は念仏宗の寺で念仏の話をするのは恐れ多いですが…、と恐縮されてから話されました。
 それは一遍が先人の空也上人の言葉を説かれたものです。ある人の『念仏はどのように唱えたらよいのか?』という質問に答え、空也上人は『捨ててこそ』と答えられて、他には何も仰らなかった。念仏行者は、智慧も愚痴も捨て、善悪の境界も捨て、貴い貧しいという道理も捨て、地獄を恐れる心も、極楽を願う心も捨て、すべてを捨ててこそ念仏であると。また、このような話を聞いて納得しても、納得しなくても、肝心なのは、ただ愚か者としてすべてを捨てて念仏することだと。
 お金を持たず托鉢によって、八十八ヶ所を行脚されていたニャーナラトー師のこころには、中世の念仏行者の「捨ててこそ」という言葉が身に染みたのだと思われます。サムヴェーガは、パーリ語辞典には「厭離心」とあります。まさに、「捨ててこそ」という意味です。

 人生で避けられない悲しみに出会って、「これまでのようなままではいられない」と緊迫感を持つことがサムウェーガと話しましたが、初期仏教に出会い冥想実践する者は、日常の日々の冥想にこそ、この緊迫感が必要だと私は強く思いました。リラックスして坐るにはちがいありませんが。
生死の一大事は今ここあるのが真実です。

 以前の法話会で、この世の中の秩序が保たれているのは、慚愧によってである。「慚hirîヒリ」と「愧ottappaオッタッパ」、「恥じること」と「怖れること」がこの世の秩序を保たせていると長老方から聞きました。なるほど、その通りだと思いました。
 今日の法話を聴いて、
「輪廻の苦海に沈むのか、それとも彼岸に渡るのか。」、「相対に生きるのか、絶対に目覚めるのか。」
この分かれ道はサムヴェーガにあると思いました。
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涅槃経

第八回初期仏教勉強会レポート その二   質疑応答編  吉水秀樹


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    有漏と無漏
「漏」(ろ)という言葉があります。初期仏教経典では頻繁に使われる言葉です。「漏れ」(もれ)のことで、「煩悩」を意味します。「漏」はパーリ語で、āsaveアーサヴァで煩悩。「無漏」anāsava アナーサヴァは、漏れが無いですから、煩悩が無い、つまり覚者のこころの状態を意味します。
「悟り」という言葉は、用語化して内容がわかりませんが、無漏=「漏れが無い」と理解すると覚者のあり方が理解されやすいです。漏れとは、感情(煩悩)の漏れです。日頃の他者の自分の言動・立ち居振る舞いを観察してみると、悪感情の漏れがあることがわかります。
 怒りや欲望は「ダダ漏れ」状態です。お酒飲んで騒いでいる人も、世間話している人もダダ漏れ。このように見ると、「無漏」というこころの状態がどのようなものか理解されやすいと思います。

 私がニャーナラトー師の説法を聞いて常々感じることが「無漏」です。師の言葉から一瞬たりとも、煩悩の漏れを感じとらないのです。これは他の先生や長老方と比べても著しい特質です。ニャーナラトー師の言葉を聞いて、嫌な思いや不愉快な感覚、また、「そうだ!そうだ!」と、他者や他団体の批判に同調して、喜びを起こす悪業、後味の悪さがないのです。
 師はゆっくりと、静かに話されて、批判的な話題はまずありません。批判に近い表現をされる時も、言葉によくよく注意されて誰かが傷つき不愉快な思いをするような言葉を使われないのです。また、わからないことに関しては「私はわかりません。」と明確に仰います。当たり前ですが、わからないことを適当な用語で巧みにすり替えることはされません。
 その場にいる人も、その場にいない人も絶対に傷つくことがないような言葉を慎重に選んで話されていると思います。というか、ニャーナラトー師のこころに漏(煩悩・悪感情)がないので自然にそうなるのだと思います。
 もし、私が説明しているような師のこのようなこころの波動に気づかれたら、それだけでその人のこころは浄められると思います。
「見仏聞法即入無生」という、日本仏教で使う言葉があります。「覚者に出会い、覚者の言葉を聞いて、そのまま覚者のこころになる」といった意味ですが、このようなことは本当に起こると私は思います。「聞く」こと自体が修養修行なのだと思います。
 まだ、師の説法に触れられていない方は、ぜひニャーナラトー師の言動に直に接して、その真相を確かめてください。他の長老方と私が比べて言うことはできませんが、この点は師の稀有な特質だと未熟ながら私は感じます。

さて、この話題は法話会の内容ではなく私の前振りなのですが、会の後半の言葉の問題を考えるうえでカギとなります。

 法話会の後半は、参加者の質疑から進められました。
「悟りの定義は煩悩が消滅すること」という言葉が質問者からでました。何気なく通りすがるような当たり前の言葉に聞こえますが、この言葉について話されました。まず、耳にして違和感があると話されたと思います。
 それは、その言葉を使う人の「立ち位置」という根本的な問題に帰着します。最初に「煩悩がある」という見解から始まっているのですが、それに対して「煩悩はあるものなのか?」という問いが生まれます。それは、「ある」という大問題が根になっています。また、言葉を変えれば「ある」は、「相対の世界」から見た見解ということになります。
「ある」からそれを「なくす」で「悟り」になるのでしょうか? 
 言葉の遊びのようですが、仏教のアプローチは、「ある」と「ない」(あることがない)の両極を超えた「なんにもない」「そのままでよし」という世界に立つ、絶対に立つことが最初で最後の一手だと思います。それは「煩悩」との関わり方が根本的に変わることでもあります。師はその「立ち位置」に戻ること、目覚めることを先に話された一遍上人の「捨ててこそ」という言葉を使って説明を加えられました。私たちが無自覚に対象が「ある」としている、その立ち位置にこそ根本の問題があります。

 私はスマナサーラ長老の言葉から以前に学んだのですが、冥想者の中に自分の精神状態の変化で、それを「悟り」と考えて、「私は悟った」と言う愚か者がいる。という内容の話でした。どんなに素晴らしい体験をしようと、その人の精神状態の変化と悟りは別物と私は理解しました。私が、あなたが、我のあるものが悟ることはありません。ですから、「私は悟った」と考えた時点でアウトです。
 愚かで、煩悩のある自分をありのままに受けとめたら、それが賢者であるというのは、ブッダの言葉です。煩悩を消滅させるには時間や努力が要りますが、仏教のアプローチはそのような葛藤とは縁のない道だと思います。

 次に質問者は「自分は悟った」と語る長老や出家者に違和感を感じ、そのことをどう考えたら良いのかという内容でした。これは、先のサムヴェーガを理解したら何のこともない問題です。他人のことをかまっている場合ではないということです。管轄外です。
 ここでも、ニャーナラトー師は、質問者も誰も傷つかないような優しい言葉で説かれたのが、私には印象的でした。その上で、オーパナイコーopanayikoという言葉を説かれました。おそらく、法の六徳の五番目の言葉だと思いますが、次に続く六番目のパッチャッタpaccatta「各自の」という言葉と絡めてか、これを師は『自分にかえる』と説かれました。

 競争・批判・勝ち負け・妬み・私の先生あなたの先生…、このような考えをつくり、批判することや攻撃することはいとも簡単で、私たちは慣れ親しんでいます。しかし、それが漏れであり、そこで肝心なことは、『自分にかえる』ことです。良いものであれ、悪いものであれ、思考・妄想に気づいたら捨てる、妄想は漏れであり、『自分にかえる』は、ブッダの冥想のいろはのいではなかったでしょうか。

 言葉は便利な道具であり、言葉があってこそ仏教も学べます。しかし、言葉の限界を知って、言葉に使われないことが大切です。言葉に対する執着を離れることは並大抵のことではありません。「言葉への執着」は、目に見えませんし、重さも感じないのです。

 ニャーナラトー師は、このことを教える為に一つの思い出話をしてくださいました。師の師匠にあたる、アチャン・スメードー師とのエピソードです。
 ニャーナラトー師が北ヨーロッパの街を歩いておられた時に、突然その異国の女性が寄って来て、片言の英語で「どうぞ、私に智慧の言葉をちょうだいませ!」と話しかけてこられたそうです。修行中であったニャーナラトー師は、少々あせって言葉を探され、「私も今それを探しています。」と答えられたそうです。
 後で、師は師匠のスメイドー師にこのような出来事があって、私は〇〇◇◇と答えましたと、一部始終を報告されたそうです。そこで師匠は、「上手く答えたね」とほほ笑んで、
“ Threre is no wisdom in words”と説かれたというエピソードです。
 「言葉には智慧はない」という意味でしょうか。私たちは言葉という道具を使うときに、注意深くあらねばなりません。言葉で人を、世界を切っていないか。言葉につかわれているのではないかと。    つづく

パーリ語勉強会レポート 吉水秀樹             2018年9月26日 黄檗道場 正田先生と五名



 スッタニパータ 第五章 彼岸に到る道の13 『ウダヤ学徒の問い』

 全部で7偈の短い経です。その中でも、1115がウダヤの問いで、次の1116がブッダの返答で、この2偈が中核です。ウダヤは三つの問いをして、ブッダがその問いに答えます。私の担当は、1115のウダヤの問いでした。この2偈を見てみましょう。

1115
“Kiṃsu    saṃyojano loko,
いったい何が  束縛   世間
kiṃsu    tassa   vicāraṇaṃ;
いったい何が それの  さまよわせる
Kissassa  vippahānena,
何を    捨棄することで
nibbānaṃ iti vuccati”
涅槃  と 言われる

ウダヤの問いを意訳すると、

『世の人々は、何によって束縛されているのですか?
世の人々は、何によってさまよっているのですか?
何を捨てることによって、涅槃と呼ばれるのですか?』

 この問いかけは、究極の問いとも言えます。さて、ブッダは何と答えるのでしょうか?

1116
“Nandisaṃyojano  loko,
喜び 束縛   世間の
vitakkassa  vicāraṇaṃ;
思いが   さまよわせる
Taṇhāya  vippahānena,
 渇愛  捨てること
nibbānaṃ  iti vuccati’’.
涅槃が  と 言われる

 ブッダの答えは、世間の常識とは対極にあります。2500年前にこのような簡潔な言葉で真理が説かれていたと思うと実に考え深いです。1116を意訳します。

『世の人々は、喜びに束縛されています。
考えることが世の人々にとって、さまようことです。
渇愛(執着)を捨てることで、涅槃と呼ばれます。』

 なんとシンプルで斬新な真理のことばなのでしょう。
私たちが喜び【幸福】としているものこそが束縛であること。考えること自体が憂いであり迷いであること。執着を捨てることが涅槃であること。最後の一言は、「涅槃とは渇愛を捨てること」と明確に説かれています。とうぜんそれは、時間の経過の結果ではなく、今ここのことだと思います。第五章は特に、目を覚まして読まないと随喜できません。

ウダヤ1115
ウダヤ1116