無常偈  2017年9月10日 安養寺みんなの仏教報告

 
無常偈 
諸行無常 aniccā vata saṅkhārā 色は匂えど散りぬるを 
是生滅法 uppādavayadhammino わが世誰ぞ常ならむ
生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti  有為の奥山今日越えて 
寂滅為楽 tesaṃ vūpasamo sukho 浅き夢見し酔ひもせず
 無常偈は言うまでもなく、仏教思想の根本となる偈文です。言いかえればこの偈の意味を完全に体得することは、解脱することでもあります。漢訳の漢字16文字では見えない内容が、元のパーリ語を読むと理解できます。
 たとえば、一文字目の「諸」はどこから来ているのでしょうか?
 これも元のパーリ語を理解すれば分かります。saṅkhārā が「行」に当たります。saṅkhāra が元の語基です。āとなっているのは複数形を意味します。そこで「もろもろのサンカーラ」なので「諸」という漢字が当てられたのです。もっともsaṅkhārāの意味が深いので、そこは冥想で実際にすべて現象を観察する修行をしないと空論になってしまいます。
 aniccā は元の形は、niccaであって、「常」です。aは否定の接頭語で「無」です。「常で無い」という意味で「無常」となります。vataは副詞で「実に」という意味です。そこで、「もろもろの現象は実にうつろい壊れゆく」といった日本語訳がすんなりと理解できます。
 さて、この無常偈は「いろは歌」としても有名です。いろは歌はお釈迦さまの前世物語の「雪山童子」の物語として語り継がれています。お釈迦さまの前世で雪山童子であったとき、ヒマラヤの奥で修行されていました。冥想していたら、羅刹(人を喰う妖怪)が歌を詠みます。これが無常偈の前半です。
  「色は匂えど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ…」
童子はこの偈がただの詩句ではなく真理を説くものと直観し、羅刹に偈の続きを聞かせてくれと頼みます。羅刹は教えてやるが「教えたらおまえを喰いたいので命をくれ」と言います。童子はこの偈の後半を聞けば解脱に至ることを直観し、真理を知らば身体に対する執着も消えるので羅刹に後半の偈を聞かせてくれればこの身をおまえにやると言います。
 羅刹は後半の偈を読みます。
「有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず」
 すべての偈を聞いた童子はその場で真理を理解します。そこで、羅刹に無駄な殺生をさせない為に、自ら崖から投身します。そのとたんに、羅刹は帝釈天に姿を変えて童子を救い取り、後生にこの真理を人々に説くように雪山童子に頼んだというお話です。このような歴史があって、現在私たちが無常偈に触れることが出きるのかと思うと感慨深いです。
 さて、後半の偈は、生じては滅し、滅しては生じるこの有為の世界では、得した損した、儲かった損した、美味しかった不味かったの感情の流転(輪廻)に終始し、そこには本当の幸福などはない。ほんとうの幸福とは、この生じては滅する、滅しては生じる、生滅の連鎖反応が完全に終止した、もう二度と母体に宿らない寂滅(涅槃)にある。これこそが真の幸福であると説かれてあります。なるほど仏教思想の根幹に違いありません。
 2017年9月10日 安養寺みんなの仏教のレポート 
                   住職 吉水秀樹
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無常偈①

無常偈

無常1

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講座案内

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8月6日 土曜日 (原則 第一日曜日) 13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) daikan_shoda@yahoo.co.jp(正田 大観)
内容 古今東西にわたる真理の言葉を題材に覚者の智慧について学びます。

学びのガイド 正田大観

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8月19日(土曜日) (原則 第三土曜日)・13:00~17:00
場所 京都仏教サンガ・黄檗道場(所在地地図参照)

問い合わせ先(メール) kusalams@yahoo.co.jp(関 政範)
内容 パーリ経典をテキストに初期仏教一般について学びます。

学びのガイド 正田大観


問い合わせ先(メール) anyouji28@outlook.jp (吉水 秀樹)
内容 クリシュナムルティのビデオやテキストを題材にブッダの冥想を学びます。

学びのガイド 吉水秀樹



* 日程は原則。月によって変更する場合があります。初参加の方は事前の問い合わせが必要です。
* 参加費は喜捨(カンパ・目安500円)
* 参加資格はありません(真剣な探究者であること、それだけです)。
* テキストはこちらで用意いたします。手ぶらでお越しください。


 真実在への取り組みについて、和やかに話し合うのに都合のいい場所で落ち合う、二十人から二十五人くらいの人々から成る、会費も会員資格もない小さなグループを持つほうが、賢明なのではありませんか? いかなるグループも排他的にならないようにするために、時々メンバー同士が励まし合ってもいいし、別の小さなグループに参加してもいいかもしれません。こうすると、グループは拡張し、狭まったり、偏狭になったりしないでしょう。

 高い所に登るためには、低い所から始めなければなりません。この小さな始まりから、人はより正常で、より幸せな社会つくりに貢献できるかもしれないのです。

     J・クリシュナムルティ(コスモス・ライブラリー刊『四季の瞑想』p.365)

第四回初期仏教勉強会レポート その三

法話

   『疑(ぎ)』 vicikiccha について 吉水秀樹
 ニャーナラトー師との問答のなかで、予期せぬ気づきがありました。私のこころのなかに潜む「疑」と呼ばれるしつこい煩悩の姿を見たことです。
 「疑」とは、一般的には「疑う」ことと理解されています。「信ずるものは救われる」といい、「信仰」を説く宗教全般では、「信じる」ことが善いことで、「疑う」ことが悪のようにとらえられています。しかし、ここでいう『疑』とは、「疑う」ことではありません。
スマナサーラ長老によると、「疑」には二種類あり、理性のある人の疑は、何でも鵜呑みにしないで確かめる良い疑。調べて確かめるまで、結論・判断を保留にすること、これは正しい「疑」です。英語でいう reasonable doubt であって、仏教が認める立派な態度です。
一方、悪い疑は、知識、能力、理性の不足によって現れる「無智の疑」です。混乱した頭で疑心暗鬼になる「無知の疑」は悪い疑です。
整理すると、仏教で説く『疑』とは確信にいたらず、あるいは確信を得てさえも、思考妄想を終わらせない、しつこい思考癖のことをいうようです。凶暴な虎で喩えられるほどしつこい人間の持っている、いつまでも考えていたい、私を継続させたいとする根本的な煩悩のひとつです。
 さて、私たちは普段、見たものは「ある」、聞いたものも「ある」、名称のあるものは「ある」という世界に生きています。目の前に見えるペットボトルがある。外に屋根が見えたら、「屋根がある」と考えて、「私がある」それを事実だとしています。しかし、ヴィパッサナー冥想を体験してはじめてその「ある」という世界に「?」が生じます。これらすべての対象は無常といって常に変化し生滅しているものです。この「?」は智慧の光です。「ある」が事実なのか、「見ている」が事実なのか、今まで考えもしなかった、健全な疑問が起こります。坐る冥想で念処経に説かれてあるように身体や感覚の観察をしていると、この疑問が必然的に起こります。
 そこで、冥想で観察される「身体」と「感覚」について師に尋ねてみました。質問を単純化すると、「身体があって、そこに感覚が生じる」のか「感覚があって、身体があると思っているのか」「身体を直接観察することはできないのではないか?」という内容になります。
 普通、人は「私がある」そして、その私には「身体がある」と思っています。そのように考えているので、「私には身体があって、対象物もあって、感覚が生じている」と考えています。しかし、ヴィパッサナー冥想によって、ありのままに起きている現象を観察する力が身につくと、感覚の真理が見えてきます。「私がある」「身体がある」「対象物がある」「感覚がある」という、「あるという世界」「思考の世界」から、「ありのままの世界」への移行が静かに始まります。冥想においては、「私がある」「対象がある」と考えることが妄想です。「感覚が生じては消えて、生滅している」という、ありのままの世界が見えてきます。「あって当たり前」の世界から、思考を離れたありのままの世界への扉が開くわけです。
 そもそも、仏教でいう世界とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六境(色・声・香・味・触・法)です。六根の感覚器官に、六境が触れると、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)があらわれるので、あわせて十八界とも言います。
 冥想実践において、最初に観察されるのは感覚です。何か聞こえたら、音音音と観察します。感覚から「セミ」「カラス」「電話」のように命名し対象を自分でつくっています。身体に感覚器官として耳があり、その感覚器官に外界の音が触れます。そこではじめて耳識が生じて、感覚が生まれます。私たちが感覚と呼んでいるのは、この六識です。
Aという感覚器官に、Bという対象が触れて、Cという感覚が生まれます。私たちの認識とは、AでもBでもなく、Cであって、それは六識です。対象があるとするのは思考妄想であって、感覚を感じているのが真相のようです。対象があるかないかは管轄外であって、ある・ないは私には断言できません。冥想において、自分の身体を直接観察することはどんなに頑張ってもできないのではないか? ただできるのは、感覚の観察ではないか? 痛みや痒み、熱や固さ柔らかさなどのエネルギー(感覚)を通じて、身体があると思考するだけなのではないか? 映画で見たマトリックスのような仮想現実の世界を「ある」としている、私たちのねつ造した思考妄想の世界へ智慧の光があらわれます。
 大乗仏教の華厳経に破地獄偈(唯心偈)という詩句があります。お盆になったら全国のお坊さんが唱える偈文です。「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」意訳すれば、「もし、人が過去現在未来のすべての仏、ダンマの世界を理解したいなら、まさに、すへてをこころがつくると観察しなさい」という内容で、唯識と関連した偈文です。
 窓の外に目をやって「屋根がある」と言いますが、眼識に光が触れて、五蘊の流れから、「屋根がある」という認識が生まれているのが真相です。「屋根がある」とは思考です。なぜ私たちはわざわざ見たものを分別したり、名前をつけたりするのでしょうか? このような疑問、問いかけを自分にすることが肝心です。本当に見ているのは光や色であって、脳内で対象をわざわざ分別しねつ造して、苦楽を受けています。私たちの認知している世界は私がつくったもののようです。ですから、百人の人がいたら、百の世界が生まれて、ぶつかり合います。これが私たちの日常の世界です。気づきのないとき、私たちは事実を見ているのではなく、脳内の分別・知識・記憶を見ているものに当てはめて事実としているのが真相のようです。
 話しは長くなりましたが、その真相について師に確認するように私は尋ねたわけです。すると、ニャーナラトー師の返答は一言でした。
「それは、ブッダの教え通りではないですか。」つまり、それは「目の前にある当たり前の事実でしょう」という意味の一言でした。私の疑念は、最初の一言で終わりました。聞いている人は何の問答があって、私が受けた衝撃を理解されていなかったかもしれません。
 私と師の違いは、師は修行により体得したことに確信があり、そこに智慧の光があるので疑は生じない。一方私は、体験したことに確信がなく、本当にこれでいいのだろうか、まだ他にも法があるのかもしれない…と。私という「我」が継続するのです。いや、継続させたいのです。これこそが『疑』の正体であり、しつこい思考癖、凶暴な虎とはこのエンドレスに理解したい、私を継続させようとする執着なのだと気づいた瞬間でした。
 冥想で真理に触れたとき、実践者のとるべき態度があるとを学びました。それは、真理を記憶にとどめてはいけないことです。記憶にとどめた時にそれは見解・執着と変化します。実践者のとるべき態度はその場で捨てることです。考えてみればこれはブッダの言葉でした。

第四回初期仏教勉強会レポート その二  吉水秀樹


  『戒禁取見(かいごんしゅけん)について』
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 私の個人的な疑問から、戒禁取見(戒禁取)につてニャーナラトー師に尋ねました。私には学びになりましたが、会場に来られた多くの方にとっては、聞きなれない仏教用語の意味など、疑問が残る質問になってしまいました。そのような経緯があって戒禁取見についてレポートします。
 戒禁取見を一言でいうと、戒律や儀式に執着することです。そのために一般の人は、「それなら私には関係ない」と思われがちです。確かにお坊さんがこの問題に出会う確率は百%ですが、仏教に関心のない一般の方には、むしろ社会の常識に位置するものなので、問題になり難いテーマです。しかし、ニャーナラトー師も仰られたように、これは大問題なのです。師は広い意味では、cultural invention 文化的慣習とも説明されました。文化に対する執着は予想以上に根深く強烈なものです。イスラム教文化とキリスト教文化の人々から戒禁取見が無くなったら世界が平和になることは間違いありません。日本でとんこつラーメンの店は繁盛していますが、イスラム文化の国でとんこつラーメンの店を出したら、人間の食べ物ではない、非常識として排除されることはまちがいありません。
 ここからはスマナサーラ長老が書かれた『縁起の分析』などをもとに、戒禁取見について私なりにまとめてみます。
 輪廻に結び付けるシステムについて abhijjhā kāya-gantha(強い欲・集まり・結ぶ)
長老の『縁起の分析』によると、こころの平安を妨げ、輪廻からの解脱を邪魔する、「強い欲で結ぶ四つのシステム」があるということです。
① 強い欲 ②強い怒り ③戒禁取見 ④「これが真実だ」と執着する、以上四つです。
その中の③が「戒禁取見・戒禁取(sîlabbataparâmâsa)」です。
sîlaは「戒」です。bbataは「いろいろな修行」です。Parâmâsaは「固執すること、信じること」です。簡単に言うと「邪見」のことであり、「間違った考えに執着すること」です。「間違った考え」というのは誰にでもあるので厄介です。戒禁取見は、間違った見解に固執して離れなくなることなので、これがあると輪廻に結び付けられて、智慧が働かず解脱に至りません。
 さらに説明すると、儀式儀礼、宗教的しきたり、苦行などによってこころが浄らかになるという観念的な思考や、儀式や儀礼をきっちり守りたい、威儀作法・戒や律に強くこだわることです。礼拝は三回するべきだ、焼香の作法にこだわる、線香の数にこだわる、お経の読み方や法式、衣の着方と仏具の持ち方など、これらの雑事にこだわることもこれに該当します。
自覚があるかないかは別にしても、日本仏教の多くのお坊さんにとって、この戒禁取見は笑い事ではすまされない大問題なのです。「そうは言っても、かたちは大切だ!」と聴く耳のない方も多いと私は思うのです。
 私は正しいか正しくないかはわかりませんが、戒禁取を広い意味でとらえて、「戒取」は「~するべき」、「禁取」は「~してはいけない」と考えています。「~するべき」と「~してはいけない」の両極に執着することが、戒禁取の根本だと思うのです。お坊さんから、「~するべき」「~してはいけない」の二つを取り除いたら、いったい何が残るのだろうと考えたりします。だから、これは大問題だと思うのです。
 この両極への執着があると、こころの平安が得られず、解脱には至らないことは間違いないと思います。日常の私たちのありのままの姿をよく見てみれば、この二つの両極にいかに縛られて生きているかは、お坊さんに限らず、すべての人々の深刻な問題だと思うのです。
 ある意味でブッダの説かれた修行は至って簡単です。ヴィパッサナー冥想がそれです。私でも、初心者の方に三十分ほどあれば冥想の説明ができます。私も長老に直接そのように説明して頂きました。長老は「これで説明は終わりです。あとは実行さえすれば解脱できます」とアッサリとハッキリ語られました。しかし、いやいや日本の禅の方が奥深い、坐り方・手の置き方・視線の位置、厳密に形が決まっていて、テーラワーダ仏教なんて、小乗のインチキ仏教だと言う人もいるかもしれません。かたちが決まっていないものは「修行」と認めない、と考える人も多いと思うのです。
 ブッダの教えはいたってシンプルです。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根と、色・声・香・味・触・法の六境が世界です。六根と六境が触れて生じる感覚への執着(渇愛)が苦しみの正体です。ですから、修行とは自分の感覚を守ることであり、感覚への執着を捨てることです。これがブッダの冥想のすべてで、こころを浄らかにすることです。
 しかし、多くの宗教では、諸悪の根源は外界にあり、儀式で身体を浄めることで、こころも浄らかになると信じて、さまざまな儀式を推奨します。聖水やガンジス川の沐浴でこころが浄らかになるのなら、フナやドジョウのほうが私たちより先に解脱することになるでしょう。また、女性を見たことで性欲が生じて惑わせられるので、女性の身体は全身を隠して目だけを出すのがよいとか、美しい音や御馳走に触れて貪欲が生じるので、それらに触れることのない山奥で隠遁生活をするというのも、問題が外の世界にある、外の世界を浄化すれば、幸福もこころの平安も得られるとする、人間の間違った考えがベースになっていると思います。
政治家の政治活動も、戦争も、現代社会の姿がそのまま、すべて外の世界を変えることに終始しています。高速道路や新幹線が整備されて、ますます人々が忙しくなり、こころのゆとりがなくなったことも、外の世界の問題にのみ目を向け、こころの浄化に努めず、外界を変えることにエネルギーを費やす人間のこの間違った考えの証明です。
 ブッダの教えはこれらの考えの正反対で、こころが本当に浄らかになった人だけが、周囲の世界に平安をもたらすことができるという考えです。ですから、何をおいてもいの一番に自分のこころを浄らかにするのです。
 こうして考えてみると「戒禁取」は、かたち・形式・外見・外の世界に依存して、肝心なこころの浄化、冥想修行を後回しにして、悪霊がいる、平和を乱す敵がいると、問題が外界にあるとする迷いの道だと思うのです。
 戒禁取見は、物事の本質が見えているか否かの大問題です。世俗に生きる私たちの人生にとっても、道徳・規則・規範は大切です。しかし、、それらに何一つ執着しない、それをもって自分は正しいとしない仏教者の生き方の肝心要が「戒禁取見」のテーマだと思うのです。

第四回初期仏教勉強会レポート 2017年7月17日 海の日 於:安養寺本堂

 

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第四回初期仏教勉強会レポート その一  吉水秀樹
 最初にニャーナラトー師から一時間の講話を頂きました。内容は『三学』についてです。まずは私の言葉で三学を簡単に説明します。
三学とは、「戒・定・慧」の三つの学びのことです。大乗仏教でも初期仏教でも、仏教を学ぶということは、この三つを学ぶことであるとされています。
 「戒」sīlaとは、「道徳」のことです。仏教に入門したら、まず生命として基本の道徳を守りなさいという意味だと思います。すなわち、「他の生命を害さないこと、他の人々を傷つけないこと」です。身口意の三業で犯す悪事を止めることです。在家仏教徒の五つの戒は周知の通りです。
 「定」samādhiとは、「こころの静寂」のことです。道徳をまもり、こころの静寂を目指すことが仏教の基本であり、こころの安らぎや真実の幸福のことと理解できます。
 「慧」paññāとは、「光」のことです。覚りの智慧であり、知識のように形がなく、物質的なものではありません。他の人から貰うことも、教えることもできません。知識を氷にたとえたら、智慧は水のようなもので、変幻自在です。努力して蓄えられるものではなく、記憶の中にも、時間の中にもありません。智慧の本質を知ることは仏道の王道です。
 さて、この三学に関してニャーナラトー師は、次のように説かれました。
 「戒」は、「悪がないこと」、akusalaがないこと。kusalaが「善」で否定の接頭語がついて、「不善」となります。日本語の善悪のように強い意味ではなく、「不健全でない」とか「やってはいけないことがない」という意味合いです。
 「定」は、「五つの妨げがない」「五(ご)蓋(がい)がない」と説かれました。こころの蓋(ふた)をする五つの邪魔がないことだと思います。五蓋は、nīvaraṇaといい、以下の五つです。
① 【貪欲】五欲にたいする執着(見たい・聞きたい・食べたい・触れたい…)
②【 怒り】憎しみ・嫌う・妬む。
③ 【昏沈・睡眠】なまけ、いねむり。
④ 【掉挙・後悔・悪作】こころが落ち着かない、浮つく、後悔する。
⑤ 【疑】確信がなく、思考妄想が終わらない。しつこい思考癖、凶暴な虎で喩えられる。
「慧」は、苦がない。dukkhaがないと説かれました。これも考えてみれば一見当たり前にも見えますが、ハッと光の指す言葉です。
 どれも、シンプルな内容でスッキリしていて、落ち着いて考えてみたら当たり前のようにも見えます。しかし、何か深い洞察や智慧の光を感じる解説です。初期仏教に入門し三学を学ぶ、つまり気づきの冥想・慈しみの実践の道を歩んでいきますと、こころが成長していきます。たとえば、最初は戒を意識して「~してはいけないな」と、自分の行動を自制するようになります。しかし、修行が進んでいくと、それらが当たり前の生き方になって、労なく道徳的な生き方ができるようになります。道路交通法やマナーを守って運転している人は、速度を制限されているといったストレスがなくなって、安全に難なく車の運転ができるようになります。自我が強く、貪欲のある人は、いつでも「こうしたい・ああしたい・こうあるべき」という欲に翻弄されて、イライラして、我慢や制限のストレスがあります。
「戒」が「不健全なこころがない」ということなら、戒という言葉も消えるのでしょうか。この「~がない」という世界は、仏道のすべてに通じるカギになっていると思います。究極的には「わたしがない」ということなので、邪魔するものも何ひとつ障りがないということなのでしょうか。
 師はさらに、
「戒」は、生き方のことである。具体的な身口意の三つの行為のなかに悪がない。
「定」は、こころの性質のことであり、こころの本来のあり方として、五蓋がない。
「慧」は、本当の意味での自由であり、英語のliberation(解放)に近い意味合いで、ひっかかりがない、葛藤がない自由という意味で、「苦がない」と説かれたと思います。
最後に総じて、三学は到達目標のようにとらえるべきではないこと、戒定慧の三学に照らし合わせて、自分はまだまだだ、これもできていない、あれもできていないというように考えるのではなく、ある意味で三学は「人間の説明書」のようなものであると説かれました。冥想実践において未熟で愚かなありのままの自分に出会ったら、そこで自分はまだまだだと考えるより、人間にはこのような面があるのだと、ただ淡々と観察するようなあり方でしょうか。
 さて、最後にこの話ですが、実はニャーナラトー師の初期のころの師匠にあたる物静かなアチャン・コン師が、「アチャン・チャーがこう語った」と、解説無しのタイ語で話された、ごく短い法話だったそうです。ニャーナラトー師が一日一食の森林派僧に出家したばかりの見習いだった頃、午後のお茶の時間は、一日の何よりの楽しみだったそうです。師僧が二階建ての小屋から下りてきて、お茶を頂きながら聴いた短い法話を二十数年たってもハッキリ覚えていて、今日、この時の法話をしようと考えられたそうです。このような解説があったわけではなく、「アチャン・チャーは、戒は悪がない、定は五蓋がない、慧はdukkhaがない、と語った」というようなシンプルな法話だったそうです。その法話を二十数年たっても記憶していて、今日ここで私たちに話してくださったこと自体が、何かしら時間の中にはない智慧の奥行きを感じます。
 三番目の「慧」、dukkhaがない。これは兎の角を探すような思考とは無縁の光のようですね。闇がないありのままの明るい世界、努力や奮闘、到達からは遠くはなれた世界のようです。
 ※このレポートは、ニャーナラトー師の講話を聴いて私、吉水秀樹が考えたことです。ご本人の直接の言葉ではないことをご理解して読んでください。